雑司が谷の伊福部昭/第二回;書で遊ぶ

 東京音大の卒業アルバムに学長、伊福部昭の書が残されている。卒業を控えた学生が色紙に何か書いてほしいと依頼したものだ。伊福部は文字の意味や出典には一切触れていないので、学生がどこまでその言葉を理解していたかは分からないが、最初は1977年の「守破離」であった。芸道を究める過程で、3つのステップがあることを示す言葉だ。<>は師からの教えを守る修行期、<>は独自のものを求めてその教えを一旦は破る反抗期、<>はそれらのことから一切離れて自由闊達な境地、となり、元々の出典は明らかではないが、日本の伝統である「序破急」にも通ずる言葉で、剣道の有段者で自宅に剣道場も持っていた落語家の柳家小さん(5代目)の家にこの3文字が額に入って掲げられているのを、かつて何かのテレビ番組が映し出していた。単純に落語の世界に置き換えるならば、<>が前座、<>が二つ目、そして<>が真打ち名人の境地といったことになるだろうか。剣道でも礼儀作法から入って最後は宮本武蔵のような<>の境地を目指すという点では同じで、音楽も含め、芸道全般に通ずる言葉なのである。

▲「守破離」(伊福部書)

 伊福部にとって最も重要なキーワードでもある「大楽必易」は80年に書かれている。83年と85年は同じ「正言若反(正言は反するがごとし)」で、「正言若反」を2度にわたって書いたのは、この言葉が学生と接する中で、伊福部にとって一番実感を伴った言葉となってしまったからだろうか。自著『音楽入門』(初版1951-改訂再版2003)の中でも語っているように、「意味ありげな音塊を羅列して、文学者や哲学者も顔負けするような解説をする」そうした作者側の姿勢・風潮に慣らされている学生に、伊福部の説く「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」は、正に「正言若反」であって、解る人には解るし、解らない人には最後まで解らない、まるで禅の公案のようなものだったのではなかったか。

 

 マラルメは趣味で詩作を行なっていた画家のドガから、アイデアはあるのだがなかなか書けない、と言われて「詩はアイデアで書くのではなく、言葉で書くものだ」と答えた。このエピソードはストラヴィンスキーがヴァレリーから聞いた話として、自伝の中で紹介し、そして伊福部もまた、そのことを『音楽入門』で紹介した。一見何気ない言葉なのであるが、ストラヴィンスキーにとっても、伊福部にとっても、マラルメのこの言葉は正に的を得た言葉なのであった。

 

 以下、伊福部がそれぞれの年に書いた文字と、その読み下し文、出典を示す。書体は「守破離」が勢いのある楷書、その後のものはすべて篆書で、82年の「大成若缺」は気品があって威容、86年の「跂者不立」には何か超越したような、伊福部の遊び心が感じられて面白い。

▲「大成若缺」(伊福部書)

77年「守破離」 守破離(しゅはり)

 

7879年は掲載なし

 

80年「大楽必易」 大楽必ず易【史記】

 

81年「大巧若拙」 大巧拙なるが若(ごと)し【老子】

 

82年「大成若缺」 大成缺(欠け)たるが若(ごと)し【老子】

 

83年「正言若反」 正言反するが若(ごと)し【老子】

 

84年「楽云楽云」 楽と云い楽と云う【論語】

原典ではこの後に「鐘鼓云乎哉」と続き、音楽、音楽と言うが、ただ音を鳴らせば良いというものではない、の意。

 

85年「正言若反」(83年と同じ)

 

86年「跂者不立」 跂(つま立つ)者は立たず【老子】

 

87年「果而勿伐」 果ちて伐(ほこ)ること勿かれ【老子】

▲「跂者不立」(伊福部書)

 書には落款が付きもので、伊福部はいくつもの落款を所有していて、その中には自ら刻したものもあった。それらの道具、刀や石を見せられ、私もこの浮世離れした文人趣味とでも言うべき篆刻の世界に遊んで見たくなり、道具や書籍を買い込み伊福部の風流を真似、いくつかの篆刻を試したものだ。伊福部が書に残した文字と同じ、「大成若缺」と「跂者不立」を、伊福部へのオマージュとして紹介する。蛇足ながら篆刻の刀法には2種類あって、文字の部分を刀で切って、他の部分を残すのを白文といい、文字以外の部分を刀で切って文字の部分を残すのを朱文という。


▲「大成若缺」(左)、「跂者不立」(右)
何れも筆者刻

 伊福部の書斎に入ると古い調度類やリュート、壁や棚にはアジアの工芸品、机には愛用の懐中時計や辞書類が置かれていて、そうした中でコーヒーなどを飲みながら書や篆刻の話など、いわゆる「清談」を楽しんでいると、つい帰る時間を忘れるほど、優雅で安逸な時間というものを感じたものだ。学長宛には演奏会の招待状なども多く届けられるが、義理や付き合いで行かねばならないような演奏会はできるだけ避けていた。日本に才能豊な作曲家は何人もいるが、その多くは自分達のキャリアのために毎日忙しい日々を送っている。伊福部はそうしたエリート作曲家達を尻目に、自分の時間を大事にしながら、広い学識と独特のユーモアを持って心の自由と美を楽しんでいた。

 

以下続

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