・ここでは、伊福部先生が、藝術新潮1952年7月号に掲載の「現代人のための音楽」シリーズ第7回として寄せた文書を新潮社様の諒解を得た上で全文掲載致します。

・同シリーズはその後、1953年に新潮社一時間文庫の一冊として単行本(11月20日発行)となり、本文も所収されております。

・「現代人のための音楽」は、バッハの音楽(青山二郎)、モオリス・ラヴェル(深井史郎)、私のベートーヴェン(田中耕太郎)、ストラヴィンスキイ(芥川也寸志)、ドビュッスイ(河上徹太郎)、ベーラ・バルトーク(吉田秀和)、プロコフィエフ(伊福部昭)、ガーシュイン(服部良一)、セザール・フランク(平尾貴四男)、ガブリエル・フォオレ(斎藤磯雄)、ダリウス・ミロー(牧定忠)、祈りの音楽(辻荘一)、ジュアン・シベリウス(渡辺暁雄)、ショスタコヴィッチ(戸田邦雄)、シェーンベルク(柴田南雄)、と当時の錚々たる方々がそれぞれ独自の作家論を展開しております。

 

・伊福部先生がプロコフィエフについて述べると言うのは極めて珍しいことと考えられます。

・本文は雑誌掲載時はプロコフィエフが存命中、書籍化の際には既に死去していると言う時間差がありますので、単行本所収の文書には、本文には変更点はありませんが最後に加筆部分があります。今回は一時間文庫所収のものを底本とさせて頂きました。

 

・原文は縦書きでしたので横書きに改めるに際して、読み易くする為、一部体裁し、旧字を新字に変更致しました。また、一部に事実誤認や当時と現在との差によるタイトルの違い等がありますが、総てママとさせて頂きました。

プロコフィエフ

 

伊福部昭

 

 大正七年七月の暑い昼さがり、帝劇でまだ名も無い若い露西亜の作曲家のピアノ独奏会が開かれた。
 この演奏会は、別に際立った取沙汰もなく、数多い他の月並な外人演奏会と同様に、今では、そのことさえも忘れ去られたのであるが、この若い作曲家こそ、現代の音楽の世界にあって、最も重要な意義をもつセルゲイ・セルゲヴィッチ・プロコフィエフその人であった。
 昭和六七年頃と思う、彼の「鋼鉄の歩み」「三つのオレンヂへの恋」其の他が日本に紹介されたが、その生命力に溢れた新鮮な音楽性、整然たる構成、ダイナミックな迫力は、若い世代を熱狂せしめるに充分であった。しかし、また、まだ完全にはドビュッシィ及びその亜流の耽美的な無気力な音楽観から脱し切ってはいなかった私の心の一隅では、彼の音楽は、音楽として何かが不足であるという風にも考えられたのであった。いまなお、彼の作品が一部の音楽家達に喜ばれない理由が私には判るように思われる。
 
それから三四年して、私の最初の管絃楽曲がアメリカとヨーロッパで演奏されたが、アンドレ・ジョルジュは私の作風をヌウヴェル・リテレール誌上に評して『彼はポール・デュカッスを通過して、プロコフィエフに赴かんとしている』と書いた。その当否は別として、その時以来、私のプロコフィエフに対する関心は、又別種なものとならざるを得なかった。作品が、他の誰かに似ているといわれる以上の恥辱はないからである。

 

 プロコフィエフの正確な誕生日は不詳であるが、一八九一年四月十一日から二十三日の間のいずれかの日に、エカテリノスラフのゾルンツェヴォで呱々の声をあげた。
 ピアノをエシポフ夫人に、作曲及び理論を、リアドフ、ヴィフドル、コルサコフに学んで一九〇九年、別に取り立てていうほどのことも無くペトログラード音楽院を卒業した。
 丁度、十二音主義のシェーンベルクが不思議なモノドラマ「期待」、を脱稿し、また、イゴール・ストラヴィンスキイという輝かしい名前が、はじめて国外の雑誌ブラタン・フランセーズの片隅に印刷され、また一方では、レーニンの「唯物論と経験批判論」が問題を投げかけた年であった。
 翌年、第一ピアノ協奏曲(作品十番)によって、ルビンシュタイン賞を得、作曲界に名を認められたが、彼の本領は、作品二十番ごろより明瞭となるので、この作品は、いまの彼にとっては、それほど際立ったものではない。
 一九一六年、作家二十四歳の時、黒海の北部に住む露西亜の異教徒シシア人を取り扱った最初の管絃楽曲「シシア組曲」(アラーとローリー)が、彼の指揮によってペトログラードで初演された。
 この作品は可成り大きな衝撃を与えた模様で、当時の批評家は、競ってこれを論じ合ったが、とくに速い楽句と抒情的な間奏曲が注目された。このような見事なアレグロとこれと相反するかの如き抒情的な旋律との対比は、いまなお彼の作品にあって際立った特色であるが、この作品の最も重要な点は、自国の土俗文化と、野蠻とも呼び得る健康な生命力に着眼したことである。丁度、ゴルキイが「今や、野蠻人の時代が到来した」と呼び続けていた時である。
 ところが、この作品に関して妙なことが起った。
 当時、モスクワにおける一大勢力であった批評家レオニイド・サバニエフは十二月二十五日附の「季報」紙上に次のような批評を掲げた。
『クウセヴィッキイによる一連の音楽会の中では、若い作曲家プロコフィエフの自演による「シシア組曲」が紛れもなく最大の呼物の一つであった。・・・・・・或人は悪作、カコフォニイ(音調不快)或は、音楽的な者には聴くに堪えぬというであろう。一方では、野性を狙った作品なのだと反駁するかも知れぬ。また批評家は恐らく恥かしさに堪えず退き下らねばならぬであろう。私は、敢て批評はしないが、若しいうならば、全然反対に、この作品は野性を狙った極めて勝れた作品であり、その範疇では、世界に於ける最高度の作品と主張するであろう。然しながら、若しこの作品から、芸術的な感動或は深い感銘を受けたかと問われれば、私は絶対に「否」と答えねばならぬ。というのは作曲者である彼が、極めて杜撰な、投げやりな指揮をしたからである。』このように、サバニエフの評は、作家、演奏家、聴衆を刺戟するに充分な論調であったが「シシア組曲」の上演は予告はされたが、戦争のため必要な楽員を集め得ず、実際には演奏されなかったのである。
 この物語りは、音楽批評をこととする人々は、作品を読まず、研究せず、又演奏を聴かなくとも、自からの霊感、或は風評によって、相当立派な批評を書き得る特殊な才能に恵まれているものであることを遺憾なく立証している。――たとい、演奏会に出席したにしても、精神が概念旅行をしていれば不在であるのと同じである。罪は更に重い。――

  

 一九一七年露西亜は革命の動乱の中に巻き込まれるのであるが、翌年、彼は早くもその混乱の中から『古典的交響曲』(作品二十五)を世に送った。
 この作品は、作者自らが古典的と題したようにたしかに、十八世紀の音楽様式を思わせるものではあるが、このことのみによって、この作品を擬古典と見るのは誤である。いうまでもなく、当時「新古典」又は「復帰」と呼ばれる一つの思考が澎湃として興り、ストラヴィンスキイさえも、この思考に傾いたのであるが、ストラヴィンスキイは屡々画家ピカソと比べられるように、その後も幾多の予測を許さぬ変貌を極めるのであるが、プロコフィエフのこの古典に対する凝視は、現在もなお、変ることなく維持されているのであって、いわば彼の本質なのである。たとい、彼の手法が如何に近代化されようとも底に流れる明確な線と調性、また、機械的なまでの整然たる構成に対する彼の愛好は、明らかに古典、就中、スカルラッティに由来しているものなのである。この点、彼の主張は、二十世紀に於ける他の一大潮流たるシェーンベルクの無調十二音主義と本質的に異っている。いま若し、ストラヴィンスキイに倣って彼を画家に比するならば、フォーヴの画家達がこぞって反古典の旗印を押し進めたさ中にあって、常に古典に目を向け、そこにある必然の力と伝統の要素を汲みとったアンドレ・ドランに比すべきであろう。事実この年の一月、音楽のフォーヴともいう可きヌヴォー・ジューヌ(オネガ、プーランク、オーリック、タイユフェール、ローラン・マニュエル)がヴィユ・コロンビエで華々しく発足し、彼らの旗印を押し進めたのであった。
 一方、露西亜では、ニコラス宮廷附の最高の作曲家であったタネィエフは死に、国民楽派五人組の最後の生存者クュイもこの世を去り、仏蘭西音楽最後の火花であったドビュッシィもまた、大戦の砲声を耳にしながらこの世を辞したのであった。
 その頃、新たに誕生したソヴェト政府は『凡ゆる科学、文学、音楽及び美術作品は、その公刊たると未刊たるを問わず、また、その所有者の誰たるを問わず連邦共和国の資産として認めることを得る』という法令を出した。その真意の理解に苦しんだ芸術家達は、次々に露西亜を亡命したのである。私の師、チェレプニンもティフリスに亡命したが、当時の様子を語って『窮乏は甚しく、暖をとるのには、燃料を買うか、酒を買うかが問題であった。彼、プロコフィエフは恐らく酒の組であったろう』と述べ、また『古来、第一級の芸術家で酒を飲まなかった者があるか』ともいっていた。
 とにかく、彼はペトログラードを脱れて、日本に現れ、三回の演奏会を催してアメリカに向った。上陸と同時にニューヨーク・タイムズ紙上で『露西亜の音楽家達は、大きな試練にも拘らず、依然仕事を続けている』と宣言した。
 一九二一年には舞踊曲『道化師』(Chout)が巴里で初演された。――仏蘭西綴ではあるが、これは露西亜の古い宮廷の道化師を意味する露語の音訳であって仏語ではない。また、原題は「七人の道化師に一杯喰わされた一人の道化師」という長いものである。――このバレエは、六場面から出来ているが一場は全音音階、二場は不協和音群、三場は半音音階という風に、場面毎に音楽手法を変え、それぞれの効果を狙っているが、最後の「商家の庭」は唯一音のユニゾーンで終っている。この和音処理の単純化は、当時、ミロー、オネガ等によって病的なまでに数多い音を組合せることが近代的と考えられていた音楽界にあっては、可成り諷刺的な事件であった。この頃から、彼はスカルラッティの思考の上に、ムソルグスキイの臭気を漂わし始めるのである。
 この年の十二月、二十世紀の傑作といわれる彼の「第三ピアノ協奏曲」がシカゴで初演されたが、この曲は、明確な線に対する彼の好みを遺憾なく示す作品であって、曲はクラリネット一本の朗々たる歌によって始まる。『落日にも増して音楽的なものは無い』と述べたドビュッシィの音楽に比すれば、この彼の作品は晴天、無風、午前八時の音楽ということが出来よう。また、同月三十日、カルロ・ゴッツイの幻想的な物語りによる歌劇「三つのオレンヂへの恋」が同じくシカゴで初演された。これら相続く傑作によって、プロコフィエフは自己の進むべき道と、また新しい音楽の方向を次の世代に暗示したのであった。一方、露西亜国内では数多い芸術家の亡命によって、純音楽の若い作家達は、その進路に思い迷っていた。彼は、このことを大分気にしていたようである。
 一九二三年には露西亜風な主題で始まる「第一提琴協奏曲」がストラヴィンスキイの新古典主義的作品「八重奏」と共に巴里で初演された。この最も有能な露西亜の二人の作家が、目立たぬ地味な古典の世界で相見えていたこの年、同じ巴里ではオネガが『人々が婦人や馬を愛する如く、私は機関車を愛する』と述べ、騒然たるハリバーリズムの作品、大陸横断機関車「パシフィック・231号」を発表した。世界の耳目は皆機関車に集まった。だが、この頃から単なる時代の寵児と、静かに歴史をつくる芸術家が分れ始めるのである。何時の時代でも、真の芸術はジャーナリズムのスポットから外れるものである。
 続いて、管絃楽、混声合唱、呪文を唱えるテノールのための『ゼィ・アー・セヴン』が書かれ、降って二六年には、「第二交響曲」が初演されたが、これ等の作品は彼が異国にありながらも、依然露西亜の伝統の上に立っている作家であることを示した。この年、モスクワでは、ダビデンコによって略称「プロコール」と呼ばれるプロレタリア作曲家を養成する組織が結成され、文学ではショーロホフの「静かなるドン」等が発表せられた。いわば、ジュダーノフのプロレタリア・リアリズムの萌芽が生れ、以後のソヴェト音楽に少なからざる影響を与えることになるのである。一方、アメリカではジャズ様式によるガーシュインの「ピアノ協奏曲」が紐育で初演され、アメリカ国民音楽現ると論議やかましかった年でもある。また、この年、レニングラードの音楽協会は『唯美的な作品、及びデカダンな傾向を持つ作品は協会によって徹底的に排撃する』と宣言した。だが薬が効き過ぎたか、極めてアカデミックなショスタコヴィッチの第一交響曲が生れたに過ぎなかった。この頃からソヴェト政府は亡命中の芸術家達に帰国を勧誘し初めたらしい。また、それとは別に、プロコフィエフ自身も流石に故国を懐しんだようである。
 それかあらぬか、翌二七年には、ソヴェトの重工業を主題としたバレエ「鋼鉄の歩み」が、また、亡命前にスケッチを書いたドストエフスキイの台本による四幕の歌劇「賭博者」が完成された。
 ついで二九年には、「第三交響曲」、バレエ「放蕩息子」「管絃楽のディヴェルティメント」が発表されたが、この最後の作品に関するオリオン・ドウネスとの対話の中で、彼は『人々は、何故にこの作品をアブストラクトと呼ぶのだ。私には分らぬ。私は、アブストラクシォンの印象に基く旋律の新しい構築だと考えている。』と述べている。私の気のせいでもあろうか、この弁明には、何か祖国を長く離れた旅行者の疲れ、あるいは異邦人特有の不安、更にいえば、生活と遊離した頭脳の空転に近いものを読み取り得る様に思われてならない。
 やがて、「第四交響曲」バレエ「ボリステネスの岸辺」が書かれるが三二年十月三十一日には、ベルリン・フィルハルモニイによって「第五ピアノ協奏曲」が初演される。この演奏会では、彼自らがピアノを弾いたが、恐らく、これがヨーロッパにおける彼の最後の演奏だったと思われる。伝えられるところによると、彼は当日、焦茶色の背広の平服で演奏会に臨んだが、楽屋の看視人には、平服の故に出演者とは認められず入場を拒否され、また、演奏会場では、楽員、聴衆と奇妙な対立となったが、皮肉にも、演奏は極めて見事であったといわれている。また、彼が演奏を終っても、唯一つの拍手も起きなかったともいわれている。ドイツでは既に、ローゼンベルグの「二十世紀の神話」が読まれ、ナチスが政権を握る直前の異様な感情に包まれていた時であった。

 

 また、この頃、如何なるコスモポリタンと雖も国家、政治、民族を意識せねばならぬような事件が起った。即ち、ナチスによるユダヤ系作家とアスファルト文学の追放がこれである。又、ヴェニスでは、知的協力国際協会が「芸術と現実、芸術と国家」という議題の下に盛んな討論を戦わした。特に、この問題は亡命作家にとっては致命的であった。彼は終に祖国に帰ることに決したのである。
 ところが、彼が、音楽上の功績によって、羅馬サンタ・セシリアの名誉会員に推された三四年一月二十一日、この同じ日にレニングラードでは、ヴィサリオン・シェバーリンの劇的交響曲「レーニン」が上演され、民族の呼び声に戻った彼ではあったが、再び「国家と芸術」という問題にぶつからざるを得なくなった。一方、ストラヴィンスキイは六月の十日附をもって、仏蘭西の市民権を得、民族、国家、政治のすべての煩わしさから逃避した。この逃避した自由な精神はやがて「トランプ遊び」「曲馬団のポルカ」ジャズバンドのための「イヴォニイ協奏曲」を世に送り、一方、圧力を受けたかに見えた精神は、「ペテアと狼」「ロミオとジュリエット」「露西亜の主題による序曲」等の生活的な作品を書き始めるのである。
 私は、茲でバレスの「根こそぎにされた人々」をめぐって、バレス、モオラス、ジイドの三人が、人間と郷土、という問題に関して、苗木屋のカタログやノルドオの法則まで引合いに出して行ったポプラ論争といわれるものを思い起こさずにはいられない。ジイドは『教育とは、頭脳的に故郷を離れることだ』と力説しているが、これは事実に相違ないにしても、芸術は教育だけでは如何とも致し難いこともまた事実である。芸術家が、その精神の郷土を、自己の血液の上に置くか否かは、極めて重要な問題である。このプロコフィエフとストラヴィンスキイの差を、啻にこの点からのみ眺めるのは、偏見に過ぎるにしても、「アレクサンドル・ネヴスキイ」と「三楽章の交響曲」との圧倒的な差は、この問題にとって可成り暗示的である。
 一九三六年、プラウダはジュダーノフの社会主義リアリズムの立場から音楽を批判するという方法を採った。
 ショスタコヴィッチは『音楽は政治的基礎を持たざるを得ない。イデオロギィ無しに音楽はあり得ない』と早くも堂々たる弱音を吐き、プロコフィエフは『音楽は音楽家に任せよ』と語ったと伝えられている。しかし彼は徒らに反政府的であったわけでもなく、また露西亜の伝統と民衆を愛することも人後に落ちるものではない。それ故にこそ帰国したのであり、また、そのことは作品に最もよく現れている。ただ彼は賞賛を受くるの故をもって、ザハロフの「スターリン頌歌」アレクサンドロフの「スターリン・カンタータ」というふうな作品を書き得なかっただけなのである。特にパヴレンコと共に映画のために書下し、後カンタータに改めたアレクサンドル・ネヴスキイの如きは、彼が故国に帰ったことによって、始めて達せられた傑作ということが出来よう。

 

 以上の他に、それぞれ問題を含む歌劇「マダレーナ」「サルカスメ」「果敢なき幻」「冬のかがり火」「グラニイ物語り」「平和の守り」、第六に至る交響曲、第八に至るピアノ奏鳴曲その他があるがこれ等を割愛し、最後に彼の音楽思考上の問題に少しく触れよう。

 

 彼は現在、ドビュッシィ及びシェーンベルクによって音楽から追放されかけた音楽の種々の要素の救済に努めているように思われる。いわば彼の仕事は建設に近いものともいい得るのである。彼の行った改革は第一に、唯美、無気力、不決断によって殆んど、ポアンチリズム化して居た音楽に、明確な、的確な線を取り戻し、また、雰囲気と思索に心惹かれるの余り律動感を失いかけていた音楽に、生命ある律動を回復し、新しい調性感の必然性を強調した点である。しかし、彼の最も大きな功績は近代主義の名のもとに、単なる聴覚の擽り、または近代理智の単なる玩具に墜しかけていた音楽に全身的な魂の感動を呼び覚ましたことである。
 音楽技法の上における彼の特色は、原始音楽に屡々類似を認め得るものではあるが、短小な楽句を繰返し使用するという方法を採っている。これは、ドビュッシィ及びその一群の作家によって『或る和音は、これを併行に、連続的に移動することによって、その和音感を強めることが出来る』という理論を更に進めて律動の上に採用したものなのである。彼はこの他、現代の音楽における新しい技術は総てこれを遺産として利用する方法を採っているが、唯一つ楽式の点では、不思議なほど、一般的な古典的方法を墨守している。これが、近代主義者達にとって唯一つの不満なのであるが、私は、彼の形式を見る度に、トマス・マンのトニオ・クレーゲルを思い起す。
 マンはこの作品の中でトニオをして『真の芸術家の精神というものは、どのようにしても、本質的に一般とは異り、心ある人が見ると一目でそれと見破ることが出来る。だからせめて、形式的な面だけでも、出来うる限り、一般的な平凡なものとするように努めるのだ』という意味のことをいわせている。凡俗な精神ほど、外面の非凡を衒うのはいうまでもない。
 プロコフィエフの音楽は、恐らくトニオと同じ意識の上に樹っているのであろう。この点のみによっても、彼が非凡な芸術家であることは疑いを入れない。

 

 

 長らく病床にあったプロコフィエフは一九五三年三月八日死去した。

 

藝術新潮七月号. Vol.3, No.7. p139-144. 1952. 新潮社 東京

 

一時間文庫 現代人のための音楽. p81-92. 1953. 新潮社 東京