・ここでは、伊福部先生が、藝術新潮1954年12月号に寄稿された文書を新潮社様の諒解を得た上で全文掲載致します。

・本文は、1954年10月16日~18日に日比谷公会堂で行われた、スジャタ、アソカ夫妻の印度舞踊公演の舞台評論です。

・伊福部先生が純粋な評論文を書かれる事自体、非常に珍しいことです。然しながら、伊福部先生らしい視点で評論が進められており、また、民族音楽研究者としての視点も垣間見え、大変味わい深い文書です。御高覧下さい。

・現在と用語が一部違いますが(例;モグウル帝国→ムガル帝国 等)、原文のママと致しました。また、巻頭のグラビアページと本文には公演の舞台写真が数葉掲載されておりますが、これらの転載は断念せざるを得ませんでした。

 

・猶、原文は縦書きでしたので横書きに改めるに際して、読み易くする為、一部体裁を変更致しました。また、漢字は正字が使われておりましたが新字に改めさせて頂きました(ブラウザや機種、フォントの問題により読めない場合が多いとの報告を受けておりますので、今後、「伊福部昭を読む」では、戦後に書かれた文書は原則として新字で掲載致します。)御了承下さい。

二千年前の舞踊
スジャタ、アソカの印度舞踊
 
伊福部昭
 
 伝説のつたえるところによると、今よりおよそ一万年以前、一握りほどの人間が中央亜細亜に住んでいた。ある朝、彼等は未知の世界への探険を決心し、あるものは東に、あるものは西に向つて進んだ。東へ向つたものは、現在ヒンドウ・クッシュ山脈と呼ぶ甚だけわしい巌山を越えて印度に到達しアーリヤ・ヴァルタ(貴族の住む国)と名附けた。
 
 ある夜、突然雷鳴が空を裂き、大きな地震が起きて一夜にして山と河とが創り出された。そこで、アーリヤ人はヒマラヤの彼方には人類の運命を支配する神々がいるに違いないと考え、その慈悲を乞うて祈りの踊りをおどつた。これが印度舞踊の根源であるといわれている。
 
 慈悲を乞うべき神々は男神 Devas 女神 Devis 合せて三億三干万であると信じられ、また神々にはそれぞれ異つた音楽と踊りが必要であると考えられた。音楽では六ツの季節に対して六つの音階(Ragas)が創られ、一年を通じて地球の心理状態に調和すると考えられた三十種の補助音階(Raginis)が生れ、更に律動の制限も加つて、その様式は甚だ複雑なものとなつた。舞踊もまた、これに劣らず厳格な制限によつて種々な様式のものが作られた。これ等が北部においてはカタク(Kathak)のバラモン、南部ではブラマチャルヤ(Brahmacharya)のバラモンの庇護の下に幾千年もの長い年月、原形のまま継承されたのである。
 
 紀元前五百五十年、釈迦が誕生すると、これに件つて、今までとは異つた一種の祈祷舞踊であるアラティ(Arati)が発生し仏教の伝播に伴つて、モンゴール、インド・モンゴール、チベット等に伝つた。これは、アーリヤの神々の踊りのようには厳格なものではなかつたので、それぞれの地方によつて、変型され、広く仏教国全般に影響を与えた。
 
 わが国もその影響下にあることはいうまでもない。また、今より七百年前、印度は回教徒の侵略を受け、アーリヤ・ヴァルタはヒンドウという名に代り、回教徒がこの地を三百年ほど支配したのであるが、彼等は神々のためのみではなく、新たに出来た回教下におけるナワブ(大守)マハラジャ(王侯)サルタン(回教王)等を讃えるために、アーリヤの基礎にもとづく新しい踊りを創り出した。これが現在ナウッチ(Nautch=英語)と呼ばれ印度の民間特に北部に普く行われている踊りである。
 
 更に、モグウル帝国が崩潰(一七五七)すると、今まで神々のもの、または教育の一要素であつた舞踊は、その立場を離れ、北部では主に娼婦の専有物となり、南部ではブラマチャルヤのバラモンの寺院舞踊となつた。しかし、このことはかえつて、従来難解であつた手のジェスチュア(Mudra)やパントマイム(Abhinaya)が一般人に広く理解される結果を生んだ。さらに、二十世紀になるとタゴール等の努力によつてこのヒンドウの舞踊は宗教と娼婦から離れ、芸術の一分野として見做されるようになつた。
 
 現在、北部にはナウッチと極めて洗煉されたマニプリ(Manipuri)の踊りがあり、南部には次の五つの流派がある。一、コディヤタム(Kodiyatam) 二、ダシアッタム(Dasiattam) 三、モヒニアッタム(Mohiniattam) 四、バーラタ・ナティアム(Bharata Natyam) 五、カタカリ(Kathakali)等がこれである。
 
 この度スジャタ、アソカによつて踊られたものは、バーラタ・ナティアムとカタカリが大半を占め、その他カタク、マニプリ、チベットの仏教舞踊等があつた。
 
 さて、室内の照明が暗くなるとマイクロフオンは次の作品がどのような意図のものであり、またどの流派の動きによるものであるかを伝えた。しかし、その解説は説明の域を超えて、作者の意図が詠歎的に、時には詩の形を借りて朗読されるという風なものであつて、素直に吾々の心に訴えるにはある種の臭気が強すぎたようであつた。やがて、音楽が始つたが、これは開幕を知らせるタムタムの音から既に電気再生によるものであつた。そのことはプログラムによつて承知はしていたものの、やはり生の音楽を聴き得ないことはなんとしても残念であつた。次に舞台照明であるが、全般に明る過ぎて床の疵跡やゴミまでが明瞭に見えるほどであつた。印度の踊りでは床を重要視し色のついた軟い粉が厚く播かれ、踊手が退場したあと、その足の画き出した模様が詩にうたわれるほど美しいことになつているのに随分無慈悲な照明である。幾千年の伝統をもつアーリヤの神々の踊りは、近代科学の電気による光と、電気による音によつて、無慙にもその雰囲気が剥ぎとられていくように感じられてならなかつた。
 
 しかし、そのうちに踊りそのものも私の予期していたものとは異つたものとなつて目に映りはじめた。
 
 異邦人であり、また専門家でもない私に、それぞれの流派のもつ様式の特徴や、ムードラの細い変化等が判ろう筈もないのではあるが、何か純粋ではないものの散見するのを感じた。芸術舞踊とうたつている以上、伝統的な動きのほかに、独創による動きの入るのは当然であるがそれ等とは別に、心の底で私の観賞をさまたげるものがあつた。
 
 印度古代の聖典であるナティアサストラ(Natyashastra)の中に、一人の芸術家が全生涯を舞踊に捧げようとする場合に持つていなければならない素質が表示されているが、その中で最も重要なものとして、美しい肉
体、律動の感覚、表情の優雅、安静(Repose)の優雅、の四つが掲げられている。ここに問題となるのは、最後に掲げられた安静という語であるが、これはわれわれの概念とは少し異つた意味をもつていて、プラティマ・タゴール(ラビンドラナートの息子の夫人)はこれを次のように説明している。『安静という語は、芸術家や舞踊家は外部の世界のことを考えてはならないという意味を含んでいます。即ち、観客を惹きつけようというような誘惑から遁れねばならないということなのです。』
  
 これは東洋の芸術観の根抵をなす思想であり私の最も心惹かれるものの一つである。私の素直な観賞をさまたげたのはこの点なのであつた。彼等としては、難解とされている自分達の遺産を出来るだけ容易に、また広く理解させようとする好意から発したことなのかも知れないのではあるが、この一種の寛大さの生んだ結果は全く逆であつた。彼等はアメリカで既に数百回の公演を重ね、しかも、はなはだ好評であつたというが、その年月の間に自国の古典であるナティアサストラよりショウマン・シップの方が心の中で重みを加えて来たのではないかと思う。
 
 芸術に対する根本的な思考そのものが既に郷土を離れた場合、末梢的な技法が如何に伝統によるものであつても、その伝統は充分な力を示すことは出來ない。
 
 スジャタ、アソカの踊りは芸術舞踊という立場から可成り自由な態度をとつているのであるから、比較するのは妥当ではないかも知れないが、一昨年来朝したマニプールの踊手プリヤ・ゴパール、ラクシュマンの舞台と興味ある対照を示すものであつた。
 
 さきのゴパールを見た時は、観衆の八割が欧米人で他の二割が印度、インドネシア、われわれを含む亜細亜人であつた。最初の開幕は、何の予告もなく舞台の蔭の打楽器の弱奏で始められた。それは四秒おき位に極めて弱く打ち鳴らされるので、多くの人達は舞台が始つたとは思わなかつた。殊に『舞台の音楽は絶対に強奏を以つて始めなければならない』(リヒアルト・シュトラウス)という考えに慣れた欧米人は何時までも喋り続けていたが、徐々にその気配に感づいてすこぶるきまり悪るそうに沈黙してしまつた。やがて、踊手は薄暗い舞台に姿を現したが、われわれを完全に無視するかの如く、時にはわれわれと敵対するものかのように冷く踊りを進行していつた。そうして踊手がわれわれを無視すればするほど、われわれの感動は押え難いものとなつた。この舞台では、最初の音楽からすでに観衆を惹きつけようなどとする風は微塵もなく、明らかに安静の精神に貫かれていたのであった。この点における両者の開きは、私には極めて重要なことのように思われた。
 
 衣裳は総て夫妻の創案になるものというがそれらの根源は印度の伝統に根ざしているもののように思われた。しかし、印度の舞踊の一つの特色となつている魂の性質を象徴化したグウナス(Gunas)と呼ばれる色彩の区別(緑=Sattvaは神聖、赤=Rajasは熱情、黒=Tamasは悪霊等の定石的色分け)は自由に取扱われているようであつた。しかし、金属的光沢をもつた色彩に対する感覚はわれわれを驚かすに充分なものがあつた。われわれの枯淡とさびへの好みは、得てして生の光沢を否定する傾きにあるが、裸の光沢の美しさを、もう一度考えて見る必要があるのではないかと思つた。ガルダの翼の光沢は確かに亜細亜的な豪華さといい得るものであつた。
 
 音楽は、これ等の舞踊のために特に作曲されたもので楽器編成は民俗楽器西欧楽器を合せて十二種のものが使用されているとプロには載つていたが、実際にはそれ等以外に弱音器を使用した Tromba と、 Clarinetto の Chalumeau 音が明瞭に聴きとれた個所があつたから、この記載は精密なものではなさそうである。ともかく、いい得ることは、印度の民俗楽器と西欧のオーケストラ楽器との混合になる編成が用いられていたということである。
 
 音楽の中、最も優位を占めているものは律動であつた。さらにまた、踊手の両踝に附されたゴングレ(Ghoongree)正しくはNoopoors)と呼ばれる一群の鈴が別の律動を加えるので、その組合せによる律動感はさすがに伝統をしのばせるものがあつた。
 
 旋律は多くは唯一本の線で、それが飾られる場合でも所謂和声的(Harmonic)なまたは多声的(Polyphonic)な取り扱いを受けることは無く、音楽語でいえば完全なヘテロフォニイ Heterophony と呼び得るところのものであつた。
 
 印度の楽器はヴナ(Vina)の如く一オクターヴが十二の半音で奏し得るものもあるが、本来の音階は二十二個の音から成り立つている。この度の音楽は西欧楽器との混成という条件も手伝つてか十二音のものが主となつていたが、随処に現れる土俗楽器の音色と特有の動きによつて全般的には印度風に響いたことは喜ばしかつた。
 
 以上、或る種の不満は述べたにせよ、芸術家が自国の伝統を基礎として仕事を進めていることは私には好感がもたれた。
 
 もちろん、異国趣味を売りものにすることは否定されなくてはならないが、国籍不明の芸術が横行している現在、この舞台は慥かに興味のあるものであつた。
 
藝術新潮 Vol.5, No.12. p230-233. 1954. 新潮社 東京