「郷 愁」

 交声曲“大いなる故郷石巻”の草稿を手に石島恒夫氏が私の家に見えられたのは今年の始め、未だ正月の門松もとれぬ頃だった。
 故郷の祝典のために書き綴られた石島氏のそれは、石巻の遠い歴史、美しい景観を実に明解な詩をもって唱い上げ、彼の故郷石巻への愛情の深さをひしひしと感じさせる立派なものだった。
 彼のひた向きな情熱に私は打たれながら、約半歳有余に渉る私自身の能力の結集と苦しい戦いが始まったのです。
 現代の複雑な社会に対応するために一番必要な神経の図太さを私は悲しいことに持ちあわせがないので、故郷の祝典のためという心理的な重圧感に、ただでも遅い私の筆はますます遅くなり、各方面の方々へ大変御迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。
 この作品のみに没頭することが許されない私の作曲生活ではあっても、運転する自動車の中でも、ふと幼ない頃遊んだ長浜の砂を思い出し、裏の田ん圃で、“たっぺはしり”に興じた冬休みを思い、のど自慢の祖母がよく唱ってくれた“さんさ時雨”“餅つき唄”そして馬に乗って長持唄にゆられながらお嫁に行った従姉のことなど。とどまる事のない石巻への郷愁は、私の脳裡から消える事は出来ないでしょう。
 そして又、今日この会場に見えた人々が、何十年後の石巻の人々へ石巻の輝やかしい歴史を伝え、深く遠い足跡を残し“大いなる故郷石巻”に一段と重厚さを加えて行く事を信じます。

小杉 太一郎

 
(石巻市制40周年記念公演プログラムより転載)

この「カンタータ大いなる故郷石巻」初演に込められた

郷土愛、故郷を想う「熱」が、いま解き放たれ、

復興へと向かう方々の「気」を僅かでも後押しできることを心より願います。

ソプラノとバリトンと大合唱と管弦楽のための
カンタータ 大いなる故郷石巻(1973)
Cantata Ishinomaki - Our great home town for soprano, baritone,chorus and orchestra(1973)
 
¥2.000(税・送料込み)
 
※ 本CDの全売上益は東日本大震災復興義援金へ寄付させて頂きます。
下記にて、販売中

 

~収録内容~

 

朗読 一 (1:12)

 

第一楽章 日高見 (11:26)

 

朗読 二 (0:46)

 

第二楽章 たたら火 (13:27)

 

朗読 三 (1:07)

 

第三楽章  雄 図 (16:24)

 

朗読 四 (1:05)

 

第四楽章  祝 祭 (12:06)

 

作曲 小杉太一郎、 作詩 石島恒夫

指揮 小林研一郎、 管弦楽 東京交響楽団

独唱 伊藤京子(ソプラノ)、 友竹正則(バリトン)

朗読  山内 明

合唱 石巻合唱連盟

 

録音 1973年11月4日 石巻市民会館

 

Salida DESL-005 MONO DIGITAL REMASTER

 

¥2.000(税・送料込み)

※ 本CDの全売上益は東日本大震災復興義援金へ寄付させて頂きます。

 

 

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父の想い出など                     カンタータ「大いなる故郷石巻」CD化に寄せて

 父は日々の商いの傍ら、早朝にまた家族が寝静まった後、小杉太一郎先生に作曲して頂くことになっているカンタータ「大いなる故郷石巻」のテキスト作りに没頭していた。あれは、いまから40年ほど前のこと。当時、中学生だった私は今でもはっきりと、その父の机に向かう後ろ姿を覚えている。早稲田で演劇を専攻していた父は長男でとりわけ祖母を慕っていたためか、夢を封印し、家業(酒屋)を継いだ。《この道しかない春の雪ふる》。山頭火のこの句が書かれた色紙を父は本棚の隅にひっそりと置いていた。
 静かなその父はしかし、故郷に熱い心を注いだ。その眼差しは家族に向けられたものとほぼ同じだったように思う。いずれ故郷を去ることが分かっていた息子(私)に父は故郷の海をよく見せた。美しいリアス式の海岸線をいったい何度、私は父の車で走ったことだろう。
「ここが月の浦だ」。
支倉常長がローマに向けて出帆した美しい入り江。
「あそこでクジラを解体する」。鮎川ではそのクジラを狩る漁師たちの姿を私に伝えた。
いつも、帰り際には、「女川」でその日の食卓に乗る魚を父は選んだ。その父の嬉しそうな表情を忘れない。売り手と買い手両方が湛える満面の笑みは、この土地の自然の恵みと人の心の豊かさ故のものだっただろう。
 
 今回の災害でその自然も人もたくさん失われてしまった。私自身も失われた記憶の風景に言いようのない無力感を感じ、慟哭した。しかし、父が今いれば、こう言った筈だ。
「海は大丈夫だ。そしておれたちの心も!」
 
 この辛い日々を乗り越えるために、カンタータ「大いなる故郷石巻」は40年も前に作られていた。そういえるかもしれぬほど、音楽はしなやかでちからづよく、やさしい。小杉先生もまた父同様、故郷をこよなく愛しておられたことをこの作品は教える。
 
 中学生の頃、父に連れられて世田谷にあった小杉太一郎先生のお宅を初めて訪れたとき、先生は私にストラヴィンスキーのオーケストレーションの素晴らしさについてお話し下さり、そしてラヴェルの「マ・メール・ロア」のフランス製のポケットスコアを貸して下さった。自信に満ちたその佇まいに、作曲家とはこういうものかと思った。その後、私が作曲を生業とし、またラヴェルを研究していることを、この場をお借りして先生の御霊に慎んでご報告申し上げたい。
  
石島 恒夫 次男
作曲家・桐朋学園大学教授
石島 正博

石島 恒夫氏

桜色のやさしさ

 昭和20年、東京大空襲で焼け出された私の父は、長男として、家族と共に逗子に移り住んだ。当時父は松竹大船撮影所の役者だったので、近くのその地を選んだのだろう。そこへ松竹の女優だった私の母が嫁いできて、私が生まれた。当時同居していた家族は、寄席で漫談を語っていた祖父。新米脚本家の叔父と、作曲家を志す叔父。そして洋裁学校に通う叔母。一風変わった面々をしっかり者の祖母が束ねていた。更に居心地が良かったのか、我が家には父や叔父達の友人が常に数人寝泊まりしていた。毎晩茶の間で繰り返される酒盛りと演劇談義。赤ん坊の私はその酒の匂いと煙草の煙の中で育った。小杉太一郎と言う人もその中の一人だった。彼の父、名優であった小杉勇氏は父の役者としての師で、ひとり息子の彼は、作曲を志す叔父を、師である伊福部昭氏に紹介してくれたのだ。ほとんどお酒を飲まない彼は、いつも目元をほんのり桜色に染めて、酔って大声で話しまくる仲間の話を楽しそうに微笑みながら聞いていた。
 やがていくつもの季節が過ぎて、みんなのマドンナだった叔母は、小杉太一郎という男性を伴侶に選んだ。それから彼は私の「太一郎おじちゃん」になった。
 昭和29年、東京に移り住んだ我が家と、「太一郎おじちゃん」の家は二駅ほどの距離。三人の子ども達に恵まれ、仕事に恵まれ、楽しい趣味の仲間に恵まれて、小杉家は順風満帆。その幸せの中に「太一郎おじちゃん」は、いつもさり気なく、私を誘い入れてくれた。
 私が成人してからの一時期、事情で我が家は母と祖母と私、女三人だけの暮らしとなったことがある。夕食が終わったころ、「太一郎おじちゃん」は時々ひょっこり一人で現れて、あり合わせの茶菓子と渋茶で、何気ないおしゃべりを心から楽しんでくれた。「もう遅いから、帰ってきなさいよ」と叔母が電話してくることも何度かあった。姑の家を娘ぬきで訪ねてくれる娘婿は、そうはいないだろう。祖母はどんなに嬉しかったことか。結婚して私はあらためて彼のやさしさが身にしみて分かった。
 今までの人生の中で私は「やさしい人」にたくさん出会ってきた。でもその中で一番はと聞かれたら、小杉太一郎という人を思い出す。彼らしいやさしさで、石巻への思いを表した渾身の作品「カンタータ大いなる故郷石巻」。この作品で被災地の復興に協力できることを、彼がどれほど喜んでいるだろうかと思うと、胸が震える。

山内 明 長女
山内 美郷