雑司が谷の伊福部昭/永瀬博彦

第一回;はじめに

 雑司が谷(南池袋)の地に東京音楽大学はある。明治通りに出ればすぐそこは繁華街なのであるが、大学の隣は区内最古の建造物である鬼子母神で、境内には樹齢700年のイチョウの大樹が、参道には樹齢400年のケヤキ並木があり、その先には郷愁を誘う都電荒川線が今も走り続けている。そんな東京音大に1974年、伊福部昭が主任教授として迎えられ、その弟子達、松村禎三、三木稔、池野成もまた助教授、講師として加わった。また、湯浅譲二と少し遅れて池辺晋一郎も入って来て、三枝成彰共々作曲科は俄然、活気を帯び、より実践的で刺激の多い作曲科に変貌を遂げた。それは私がちょうど3年に進級した時だった。

 

 伊福部が卒業した北海道大学は『北大の125年』にも書かれているように、「新興国アメリカのフロンティア魂をもった人々の助けを借りて、実学を尊ぶアメリカ型の大学として出発」している。東京音大も私学の特性を活かしたやはり実践的な音楽教育が特徴の学校として1907年に創設された。全く異なるこの2校に、もし共通点があるとするならばそれは実学重視という点だ。

 

 私が学生だった頃、時代は超能力ブームで、ユリ・ゲラーがテレビで盛んに紹介され、また、『ノストラダムスの大予言』という本が終末の近いことを煽って大ベストセラーとなっていた。作曲界では実験的という言葉がよく使われていて、高橋悠治らの前衛グループ『トランソニック』や武満徹の『今日の音楽(Music Today) 』が、また、現代音楽協会がシリーズ化した『現代の音楽展』が、前衛中心に新作発表の領域を占領していた。音楽之友社の月刊誌『音楽芸術』も新奇な書法の作品ばかりを毎月その付録に付けていた。一方、国鉄は旅行のキャンペーンで盛んにディスカバー・ジャパンというキャッチフレーズで宣伝をしていて、伊福部は「日本人が日本を発見するのに、何故そのことを英語で表現されなければ分からないのか、日本人の精神はそこまで病んでいる」と大いに嘆いていた。というより、呆れていた。それから10年後のキャッチフレーズはエキゾチック・ジャパンであった。

 

 贋物ばかりが回りにあふれ、何が本物かが判らなくなっていた。松村は「偽札を見分けるには、偽札の特徴をあれこれ観察するのではなく、本物だけをしっかりと見ること。そうすれば、贋物が出てきてもすぐに分かる」と言っていたが、回りが偽者だらけでは、本物が目の前に現れてもそれが本物であることに気づかず、かえって時代遅れで野暮であるかのように認識されてしまうこともある。湯浅は「伊福部先生もかつては前衛だったんですよ」と、否定はしないまでも過去の作曲家として括っていた。最初は湯浅ゼミにも、松村ゼミにも好奇心から顔を出していたが、伊福部ゼミに出席している時に、本物と対峙している、という実感が持てた。

▲黒板の前の伊福部
左手にタバコを持っている

 1976年、伊福部が学長に就任した年、私は東京音大を卒業してそのまま大学の教務職員として採用された。そして学長になったばかりの伊福部の世話する学長担当のような役目も仰せつかった。但し、私は学生の頃からずっと夜型の生活を続けていたせいで、毎朝9時の出勤に苦労し、2日に一度は遅刻をしていた。優秀な職員とはとても言えなかった。

 

 出不精で外出をほとんどしない伊福部は大抵いつも家に居た。火曜日の午後が自身のゼミであったので、大学での決裁や教員との面会なども出来るだけ火曜に集中させ、大学にはなるべく週一回の出勤で済むようにしていた。急ぎの決裁がある時は、私が書類を持って尾山台の伊福部邸まで届けることもあった。

 

 伊福部の生涯に渡る反骨精神は、代々神官を務めた因幡の鳥取から辺境の地であった北海道へ移住を決意した父から、既に受け継いでいたのだと思う。アレキサンダー・チェレプニンはボロディンを唯一の例外であるとした上で、「日曜画家は存在するが、日曜作曲家は存在しない」と言っている。伊福部は北大を卒業し一旦は林務官となったが、やがて作曲に専念することを決意する。上司も部下も組織も関係ない本人の能力と業績のみによって評価される世界だ。作曲家として、反中央、反権威であり続け、自分のスタイルを決して変えることはなかった。新年でも、「去年今年(こぞことし)、貫く棒の如きもの」と高浜虚子の句を引用して、心境新たにテーマを掲げるようなことは言わなかった。

 

 戦後しばらく、芸大で教えたが、池野も小杉も今井も、そして病床にあったとはいえ松村も、その大半が芸大を卒業していないのが面白い。一旦は芸大を目指した彼らも伊福部に出会って、作家としての気概に触れ、伊福部の反中央、反権威を受け継いでしまったのだろう。反骨精神は映画の仕事でも、インテリ好みの文芸物や黒澤明のような映画界の権威に安易に寄りかかることなく、反主流とでも言うべき『ゴジラ』や『大魔神』、『座頭市』のような、いわゆる知識人、文化人といわれる人たちが避けるような、サブカルチャー的な分野でその個性を発揮した。伊福部自身「文芸物は監督が安っぽい芸術論を振り回すのでやりにくい」と言っていた。

 

 北大にはBoys Be Ambitiousというクラークの有名な言葉があるが、もうひとつBe Gentlemanという言葉もまたクラークは遺している。ジェントルマンであり、且つ独自のダンディズムを伊福部は持っていた。蝶ネクタイとサスペンダーはトレードマークとなっていた。特に冬のいでたちは独特で、黒のカシミヤのぶ厚いオーバーコートにフォックスの襟巻き、頭には黒いフェルト帽をかぶり、まるで亡命ロシアの貴族か、はたまたモンゴル帝国の末裔か、とも思えるような大仰ないでたちで、街でオカマにすれ違いざま「マア、ステキ」と上から下までじっくり見つめられたこともあった。時計はオメガの懐中時計、ポケットからおもむろに鎖を手繰り寄せる動作は大いに時代がかっていたし、ライターは重たい銀製のデュポン、大きな20本入りの緑の革のシガレットケースにダンヒルが白く綺麗に並べられていた。当時から禁煙であった大学のレッスン室でもタバコを吸うことを許された唯一の人間であった。自宅の書斎の壁には漢学者、諸橋徹次の直筆で、老子を象徴する言葉「無為」が掛かっていた。学長室にも欧陽詢の書から同趣の「至人無為、大聖不作」の小さな碑文を持ち込み、自ら壁に掛けていた。

▲学長室に掛けられた碑文

 嫌いなものに対しても、決してシリアスにならず、ユーモアを持って表現していた。大学では会議の時間によってはサンドイッチなどが出されることがあったが、サンドイッチは食べなかった。「こんなフニャフニャした物は食べません」と私にこっそり伝えた。

 

 映画では熊井啓の『サンダカン八番娼館』(1974)、『お吟さま』(1978)がほぼ最後の仕事で、作品では『ラウダ・コンチェルタータ』(1976年)、『ヴァイオリン協奏曲第2番』(1978年)、『シンフォニア・タプカーラ(改訂版)』(1979年)が立て続けに書かれた頃だ。映画産業が下火となり、そうした多忙さから開放された伊福部は、教育と作品のために再び時間を割くことが出来る様になったのだと思う。そんな頃、私は伊福部がその年の審査員になったことを知って1978年の日本音楽集団の作品公募に<坐楽>という17~8分の曲を書いて応募し、1位をもらった。賞金は20万円だった。

 

以下続

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