雑司が谷の伊福部昭/第三回;酒にまつわる話①

 チェレプニンが来日した1936年、当時22歳の伊福部は横浜山手町にあったブラッフホテルに泊まり込み、一ヶ月に亘ってチェレプニンから親しく作曲のレッスンを受けた。フランス人の召使付で、しかもお金の心配は一切いらなかったという。夕方になると山下町にあるニューグランドホテルのバーへ連れて行かれ、「古来、酒を飲まずに歴史を創った男はいない、あんたは酒が飲めるからコンポーザーになれる」と励まされたそうだ。

 

 チェレプニンは東洋、特に中国への関心が強く、それは20世紀ヨーロッパのある種の閉塞感から、何らかの解決の糸口をアジアに求めていた、ということもあったとは思うが、チェレプニン自身が自らの民族性について「たとえ異論があろうとも、ロシア人は真のヨーロッパ人ではない。ロシアはこれまでモンゴルを排除したことはなかった。」(Alexander Tcherepnin. Indiana University Press, 2008. p.109)との認識を持っていたからで、この時期、中国、日本はもちろん、シンガポール、インド、そしてエジプト、パレスチナに至るまで、大きな旅行を何度もしている。チェレプニンは伊福部の中に東洋を見、また、自分と共通するロシア的なものも感じていたに違いない。

 

 

 伊福部は毎年12日を弟子達との新年会の日と決めていた。新年会では最初から最後まで、そのために用意された日本酒のみで通すのが伊福部の流儀で、ビールは出さなかった。ビールは当時、仕事帰りの勤め人が上司の悪口や仕事の憂さを晴らす、どこか安っぽいサラリーマンのイメージがあって、「清談」を理想としていた伊福部の美学には合わなかった。日本酒は、「清談から猥談に至るまでどこへでも行けるからいい」などと寓意を込めて言っていた。

 79年頃から私も錚々たる豪傑の集まる、その新年会に戦々恐々として参加するようになった。その頃、伊福部はまだ60代半ばであった。「何も言わなくても自然と集まるのが良いので、義理や気遣いは不要」と言われていたが確かに、ことさら声を掛ける訳でもなく、また、何時に始まるということもなかった。夕方頃からポツリポツリと集まり、4人ぐらいが揃えば和室に移って飲み始めた。同様にいつ終わるということもなく、途中で帰るのも、翌日の明け方まで飲み続けるのも自由、といった具合であった。

 

 真鍋は早い方で「松村が来ないのはけしからん」などと言っていたが、松村はたいてい遅い時間にやって来た。『ピアノ協奏曲』のこと、『沈黙』をシナリオにしてオペラを書くことになったこと等、いつも自作の話に終始していた。石井はドイツの著作権団体GEMAがいかに日本のJASRACと比べて優れているかを語り、原田は今小説を書いていて芥川賞を狙っている、などと突飛なことを言っていた。黛のオペラ『金閣寺』のオーケストレーションは原田が手伝ったのだそうだ。黛は211日に開かれる伊福部の演奏会の話になった時、その日は建国記念日なので・・・と丁寧にその誘いを断っていた。黛は奉祝の会の代表を務めていて、毎年、その日は黛にとって抜けられない大事な日なのであった。池野はもっぱら聞き役で、今井は時々相槌を打ちながら自分のペースでひたすら飲むことを楽しんでいた。芥川は指揮者として、NHKの音楽番組の解説者として、そして当時、JASRACの会長としても忙しく、作曲は早朝に時間を決めて行なうようにしている、と言っていた。

 

 石井は新年会では日本酒のみであるという伊福部の長年の流儀を知りながら、ビールを要求したことのある大変勇気ある人物だった。「日本はビールを冷やしすぎ、ドイツでは日本ほど冷やさない」などと、その時はビールの温度に関するお説を拝聴させられた。確かに正月とはいえ、暖かい部屋で日本酒だけで長くやっていると、口直しにちょっとビールでも飲んでみたくなるものではあったが。
 

 夜も更け、なおかつ未明に近づくと三木などは話を聞きながらいつの間にか、すーっと静かに壁にもたれて寝入ってしまったり、残った者は残った者だけで伊福部を囲んで、相変わらず思い思いの話を、それでも続けていた。「一人殻に閉じこもるのではなく、仲間と作品についてあれこれつついたり、つつかれたりすることが作家にとって何より大事なこと」と伊福部は言っていた。良き師、そして良き仲間、その両方共がその夜、尾山台でのゆっくりとした時間の流れを共有していた。

右手前が筆者、顔が隠れているが隣が永冨、床の間を背にして伊福部。

左手奥から石井、芥川、松村、今井、後ろ姿は池野。

珍しく、ビールとワインがテーブルに出ている。

 外で飲む時はもっぱら静かなイタリア・レストランでのワイン、というのが通例であった。居酒屋は騒がしいのと、たいてい店員が忙しそうにしていて、店に入ると威勢のいい声で、「ヘイ、イラッシャイ」と迎えられることが多く、そういうのは「背中を叩かれ、励まされているようで嫌だ」と言っていた。日本人の気風に<><いなせ>があって、<>はシックでいいのだが、魚河岸風の囃し立てるような<いなせ>は自分には合わない、と伊福部は言っていた。

 

 ワインも赤だの白だのと通人ぶることを避けて、いつもロゼと決めていた。ロゼは料理が肉であれ、魚であれどちらにも行けるのと、また、そもそもその種類がそんなに多くはないので、それらの銘柄は覚えやすかった。ロゼ・ダンジュ、タベル・ロゼ、マティウス・ロゼ、それぞれフランス、イタリア、ポルトガルのワインで、この3銘柄は、その頃どんなレストランでもたいてい置かれていた。確かに程よく冷えたロゼ・ダンジュは美味かった。店によっては赤か白しか置いていない場合もあって、そうした店では、フラスコの形をしたキアンティ・ブランコを注文した。これらのワインは今でこそ手ごろなテーブルワインなのであるが、今程ワインがポピュラーではなく、その頃の私にはもちろん、どれがどうのという知識もないまま飲ませてもらっていた。もちろん料理を引き立たせるために、などという上品なものではなく、もっぱらワインを飲むことを目的にして2本、3本とよく飲んだ。店に入ると伊福部はワインリストを見ることなく、素早くワイン銘をボーイに告げていた。ワインの肴はチーズの盛り合わせ、アンチョビのピザ、季節によっては殻付き生牡蠣などを注文することもあった。

 

 たいていは清潔で機能的な軽食堂風のイタリアンだったが、時には東京音大の教員を誘うこともあって、少しかしこまると池袋では明治通りのビルの地下にあった「カーサ」、よりかしこまると渋谷の道玄坂にあった「ローマ・サバティーニ」であったりした。残念ながら、それらの店は今は残っていない。

 

以下続

第四回へ