・ここでは、伊福部先生が、1991年3月出版の「日本の神々と社(読売新聞社 刊)」に寄せた文書を規定に基づいた上で全文掲載致します。

・伊福部先生の神道に関する考えや御自身の音楽との結びつきについて披瀝されております。御高覧下さい。

・猶、原文は縦書きでしたので横書きに改めました。

小異を受容する寛大さ

 

音楽家・東京音楽大学教授

伊福部昭

 

 私の家は祖父の代まで一子相伝で六十五代千年以上に亘って、鳥取県、因幡国一の宮、宇倍神社の神官であった。祭神は武内宿禰命である。宇倍神社は明治三十二年、神社としては日本で最初に五円紙幣の図柄としてとりあげられ、以降、大正、昭和の年代まで続いた。代々の墓地も此処に在るので、私は、言わば生粋の神道の徒である。
 

 祖父は私の生前に他界したが、祖母は長命だったので、私は子供の時から神や俗信などについて種々な話を聞かされて育った。中でも、縄文アニミズムの名残りのような埋没神の話が印象に深い。
 

 太古は、森羅万象の悉くが夫々の神と考えられ、又、同等であった。ところが、人間が農耕を知り自然と立ち向うようになって、それまで平等だった神々を、自分の都合によって、敵と味方に分けて遇する考えが生れてきた。作物につく虫は敵、これを捕食する蛙は味方、その味方を呑込む蛇は敵と云った具合である。又、天の岩戸開きに貢献した常世の長鳴鳥(鶏)は目出度い味方であり、これを襲う狐は不吉な敵として憎まれた。
 

 然し、軈て、このような差別は人間本位で神の意に反するものであることに気付き、蛇は竜神の仲間として迎え入れ、狐は、和銅年間になって、秦公伊呂具【ハタノキミ イログ】と云う人が稲荷神社を創建し新たな神として祭ることとなった。
 

 このように蛇と狐の二神は、長い間、人間に冷遇され、他の神のような衣裳も着けておらず、形もそのままなので、少し恨みのような思いをもっているので、これに接する時は、特別な償いの心持ちを忘れてはならないと諭されたものである。そんなこともあって、少年の私は部屋に蛇を飼ったりしたが、友人達は甚だ怪しんだのであった。現在も、娘の焼いた白蛇の塼が書斎に懸かっている。
 

 他の八百万の神は、皆、我々のような形をし、神代の衣裳をつけているとされる。例えば、御手洗には臼玉【ウスタマ】大明神と云う専任の神が居り、右手で大便、左手で小便を司っているが、ここに唾を吐くと神様の顔にかかるので、これは絶対の禁則となっている。又、一般に丁寧語とされる御不浄と云う語も神に対し甚だ礼を欠くので、手水、厠、憚、雪隠などと呼び、社寺にあっては東司と云わねばならぬと云った風な教育を受けた。
 

 一方、父は家学であると言って、少年の私に老子を講じた。一章の「玄之又玄衆妙之門」とは即ち神のことであり、六章の「谷神不死是謂玄牝」とは生命の永続を願った神の計いであると云った些か道教じみた神観を説くのであった。又、その頃、私は北海道中部の音更という寒村に住んでいたが、近隣には未だアイヌの古老達がいて、彼等のアニミズムにも触れることが出来た。例えば、使い古した茶碗などが壊れると、その一個を鄭重に土に埋め「古い道具を神に還す儀式(オンネチョイペプカムイアイワテ)」が行われるのであった。真に心打たれる行事である。一見、仏教の供養に似ているが、考え方は全く異る。又、一寸、不合理に見えるかも知れないが、私は、平成元年四月、長い間温ためていた「交響頌偈釈迦」と云う作品を脱稿上演した。詞はパーリ語で、南伝大蔵経六十五巻大王統史十七章を用いた。仏教の世界観にも心惹かれるからである。
 

 このように、私は種々な宗教的教義に関心を示すが、決して習合神道なのではない。心の中では矛盾なく調和を保っている。
 

 又、時に神道は哲学的探究に欠けると云われるが、老子の「無徳司徹」の語に見られるように徹底した峻別を避け、小異を受容する寛大さは寧ろ有徳と云う可きで、より高い宗教的境地であると信じている。
 

 この、おおらかな神道は、古来「ことあげせぬ国」とされる我々にとって真に相応しい神観であると思う。

 

 

 

日本の神々と社. p38. 1990. 読売新聞社 東京