・ここでは、伊福部先生が、世界第96號(昭和28年12月号,岩波書店刊)に寄せたエッセイを岩波書店様の諒解を得た上で全文掲載致します。

・このエッセイには、伊福部先生の少年の頃の生活や執筆当時の生活が書かれております。

・伊福部先生が日頃から仰られていた、行き過ぎた効率化やモノの本来価値の喪失への懸念といったものが、先生一流のユーモアを以って辛辣に述べられております。その指摘は、現代に生きる我々にとって、執筆当時以上に真を衝いたものとなっているのではないでしょうか。

 

・猶、原文は縦書きでしたので横書きに改めるに際して、読み易くする為、一部体裁を変更致しました。

・又、原文は旧字体であり、転載に当たり、出来る限りこれを再現致しましたが、ブラウザによっては読めないこともあると考えられますので、新字に直したものも別頁(←クリックして下さい。)に掲載致しました。

 

日常生活の美
伊福部昭

 

 生活の美感と云うものは、どうも幼少の頃の環境に影響されるもののようである。
 

 もの心のつき初める頃から、私はアイヌがシヤアン・ルル(大洋)と呼ぶ北海道中部の高原で育つた。名の如く見渡す限りの草原で、冬になつても枯葉の落ちない柏が、僅かに、河のほとりや奧地に林をつくつている程度であつた。
 

 そこには、未だアイヌが澤山住んでいて、生活の樣式も私達と混淆していた。彼等は、熊祭りは云うに及ばず、火事だと云つては踊り、家を建てると云つては踊り、生れたと云つては踊つた。又、病人が出來るとハンモックの樣なもので吊し、これを搖り動かして、唄とも祈りともつかぬものを始めるのであつた。今思えば、異國の樣でさえある。
 

 この樣な行事のない時、私達少年の遊びは、窪地に石器を探しに行つたり、魚を採つたり、又、動物を捕えて殺し、これを食べて了うことであつた。特に、私は其の樣な遊びが好きであつた樣に思う。しかし、動物を捕るにはなかなか祕法があつて、これを學ぶには、不思議な一種の聖水を飮んで、餓鬼大將の家來とならねばならなかつた。この聖水はカナンチョ水と呼ばれた。
 

 トカゲと蚯蚓と蛙を甁に詰め、棒で突ついてから谷川の水を注ぐのであるが、この爬蟲類、兩棲類、蠕蟲類のオヨソ氣味の惡いスープを飮まぬことには、家來として其の日の遊びに參加は出來ぬのである。この聖水を狩の度に相當量飮まねばならぬことは、可成りの苦行であつたが、私の場合、潔癖の治療に大きな效果があつた樣に思う。後に、私が大將級に昇格した時、この暴力を大いに逆用したものである。
 

 又、男女の交際にも一風變つた慣習があつた。春早く、南面の草地が乾き初めると、そこに赤線區域が設定され、十四五の少女が年下の少年を相手に開業するのである。花代は一錢で、唯相手に一寸接觸するだけでまことに意味をなさぬものではあるが、一錢を握りしめて、草原を現場に赴くのは少年には異常なスリルであつた。花代を渡す時、握りしめた銅貨は汗を帶び、未だ肌寒い早春の大氣の中で白い湯氣が立ち昇るのであつた。翌日は、學校でこの昨日の娼婦と顏を合せて勉學にいそしむのである。
 

 然し、生活を取卷く總てがこの樣に原始風であつた譯ではなく、農地では既に、トラクターが使用され、一日にして廣大な畑地が耕されて行つた。このことは、私の中に機械に對する一種の憧憬のようなものを育て上げた樣である。
 

 この樣に兩端が共存していたが、日常の生活は、足場を大地にもつていて、今の樣に實生活と生活意識とが分離するというようなことはなかつた。トカゲを殺すにしても、何人の罪の意識もなく、唯自然にそうしていたのであつた。
 

 後年、ジイドの著作の中で、アルジェリアの少年達がトカゲをいじめるのを見て、これを救い出し、何かひどくヒューマニズムを振りかざしているのを讀んだが、私にはジイドが仰山で僞善的にさえ思えてならなかつた。
 

 其の頃から、私は漠然とではあるが、何か西歐的な敎養と、所謂都會文化人の美感と云うものを懷疑的に見る習慣がついて了つた。一方、年老いた父は微醺をおびながら、少年の私に老子をたたきこむのであつた。
 

 此の樣な歷史が、私の生活美感の尺度となつているのであるとすれば、後は推して知るべしである。

 

 

 私は朝床を離れると、先ず手洗に行く習慣である。すると、手洗の中で、近所のラジオから流れる全く豫期もしない音樂、時に「莊嚴なるミサ」や「アレルヤ」を耳にしなくてはならない。すると、音樂の力で恰も寺院の中に居るものの如く、次第に莊重な面持ちとなるのであるが、下半身は依然として餘り莊嚴とは云い難いポーズを持續しなくてはならない。そこで、この不調和について考えるのであるが、自分の行爲は神の攝理にかなつたものであるから誤りのある筈もなく、相手が惡いに違いない。特殊な條件で聽かる可き音樂を、無神經に流すラジオが天の理に背くものであると云う結論に一應到達して手洗を出るのであるが、それでも、何やら蟲がおさまらず、家妻にでも一矢報いんかと考えていると、今度は「セレナーデ」が聽えて來ると云う風で、全く手も足も出ない。
 

 此の樣に、每朝起きたトタンに簡單に頸と胴とを切り離されて了うのである。
 

 この不機嫌にされた男が、次に顏を洗う譯であるが、現代の水道はどうも不必要な程激しい騷々しい音で出てくるのが氣に入らぬし、其の水は魚が死ぬ程力な藥品を含んでいて、味は極めて不味い。魚類に致命的で、人類には無害と云うことが果して有り得るだろうか、又其の實驗年數は何年にもならぬではないか、紀元前二千年の、最も人命が安價だつた時代のモヘンジョ・ダロの水道だつてこんなことは無かつたに違いないなぞと思いめぐらすと、腹が立つので、私の家は水道と云うものを引いていない。
 

 井戸水を汲むと云う勞働は樂しくもあり、又詩的でもある。第一、人間が勤勞の喜びを忘れると碌なことはない。
 

 これが私の長年の主張であつたのだが、今月になつて、手傳の子が嫁に行くことになつてから、水汲みの勞働は詩的であるとしても、如何にも苦しいと云う妻の訴に依つて、人力を電氣モーターに切り換えた。モーターは生けるものの如く、一定の壓力に達すると自動的に止り、水壓が減ると自然に働き出す。これだと、私の少年の樣な機械に對する好みにも適合し、依然井戸の冷水が飮めると云う利點がある。私はこの適當に古典的で、又適當に近代的であるシステムが氣に入つた。この樣にして私の勤勞贊美の古典主義は、日に日に都會人的なフェミニスト・ヒューマニズムに食われて行く樣である。
 

 次は茶であるが、この熱源には以前からガスを用いている。湯は不味いがフェミニスト風ヒューマニズムの立場から仕方がない。然したまらなくなると、古い露西亞帝政時代の大きなサモワールを用いて、炭火の湯をこころみることにしている。
 

 溫度に依つて湯音の變るのも嬉しいが、炭に混つた枯葉が思わぬ時に、楓や萩の香りを漂したりするのは捨て難い趣である。湯の味については語るに及ばぬ。又、時には炭にかかつた猫の小便の臭に惱まされることもあるが、兎に角變化があつてよろしい。
 

 次は食事であるが、腹八分目は大病のもとと云うのが私の養生訓であつて、原始的な食物を出來るだけ大量にとつて書齋に籠るのである。ここでは、樂譜と云うへんてこな記號と外國の文字とを書き續け又ピアノと云う樂器の前に向つて見たりするのである。
 

 がしばらくすると、何やら自分の國籍が不明になつて來るような妙な不安に襲われはじめるのである。そこで私はこの不安から遁れる爲めに、私達の仲間であるアジアの古代樂器と原始樂器を身邊に置くことを思いついた。
 

 今では、奇妙な樂器が四十種程に達したので、其の時に應じて、好みに合つたものを選んで、側に置くことにしている。樂器には、かつて其れを愛用した人達の靈がのりうつつて、夫々一種の鬼氣を漂わし、絶えず私を見守つている。
 

 私が何かを彈きでもすると「それがアジアの音樂だと云うのか」「それの何處が美しいと云うのか」なぞと囁き、殊にギリヤーク族のトンクルと云う樂器なぞは、馬の尾の毛で出來た蚊の樣な音より出ぬ一絃琴に過ぎぬのであるが、これはいつも「安手の近代主義はどうもね」と囁くのである

 

 

 此等の原始樂器との對話に私の生活が始るのであるが、全般にこの種の樂器は安手の文化臭を甚だ嫌つているようである。

 

 

 又、無駄を省いて何んとか合理的な生活にしたいものだ、なぞと考えていると「無駄をすることは生きることに積極的になることなのだ」と囁いたり、果敢ない徒勞に落膽していると「果敢ないことに情熱を感じ得るのは人類の光榮である」又、「其れ以外に生活の美があるか」なぞと囁くのである。

 

世界 No.96, p.52-54. 1953. 岩波書店 東京

▲伊福部家の楽器部屋(1955年頃)