・ここでは、伊福部先生が、昭和23年12月11日発行のコンサート第一輯(名古屋市音樂協會 刊=詳細不明誌)に寄せた映画音楽制作に関するを文書を全文掲載致します。

・昭和23年は伊福部先生が映画音楽を手掛けた最初の年でもあり、非常に興味深い文書であると思われます。御高覧下さい。

・本文でも触れられております様に、当時、映画音楽の録音は音楽テープへの録音ではなく、フィルムに直接光学録音する形でありましたので、現在の録音の実際と若干差異があります。

 

・猶、原文は旧字旧かなで、しかも誤植が多かった為、再現するのが非常に困難でありましたので、読み易くする為、縦書きを横書きに改めるに際して、旧字旧かなであったものを新字現代かなへ変更し、また、文節を区切る等、体裁を変更致しました。御了承下さい。

・原文の体裁を出来得る限り再現したものを別頁(←クリックして下さい。)に掲げましたので、御参照下さい。猶、旧字版はブラウザや機種によっては正しく表示されないことがありますので、御注意下さい。

映画音楽の出来るまで

 

伊福部昭

 

 映画音楽の出来上がるまでに就いて何か書く様にとの註文である。
 映画の音楽が完成するまでには、作曲と演奏と録音の三つの過程を経なくてはならない。此等は相関的なものであって、最後の効果はこの三者の協力如何に関っているものなのであるが、ここでは便宜上これを分離し其の順を追って一つ一つに就いて極めて簡単な説明を試み様と思う。

 

 

 所謂音楽映画と云う様な特殊なものを除けば、映画音楽の作曲と云う仕事は劇の台本が出来上がってからこれに参画するのが一般である。最初に何処に何の様な音楽を入れるべきかと云うことに関して、演出家との打ち合せが行われる。これは台本が同一であっても演出家と音楽家とが夫々異なったイメージを持つことがあり得るからである。
 一例を掲げれば「夕暮の丘の上」と指定した甘い場面があるとする。そして、其処に音楽を使うことに決定をみたものとしよう。其の時作曲家は夕暮の遠い丘を二つの黒いシルエットが静かに歩いて居ると想像するかも知れない。又一方演出家は、夕雲を背景として二人の抱擁をクローズ・アップで撮るかも知れない。この様な差異があれば、音楽は当然其の性質を変えなくてはならない。映画にあっては其の場面が持つ雰囲気の外に、カメラと撮される対象との距離の大小が非常に其の付随音楽の性質に影響を与えるものなのである。
 説明するまでもないと思われるが、同じ雰囲気でも対象が遠く客観出来る場合と、体温を感じ得る程までに近い場合とはでその感動の形態が異なるのである。又、台本では当然音楽が必要であるかに思われる個処でも、演出の如何に依ってはその必要がなくなる場合も起り得るし、又其の反対の場合もあり得るものなのである。この様な理由に依って、演出家との詳細な討議が必要なのである。
 だが、茲で音楽の立場から一つの弁解をして置かなくてはならぬことがある。又甘い場面の例を掲げて恐縮であるが、極く会話の少ないラヴ・シーンの様な場合、新しい外国の映画では余り音楽を用いないのが普通である。その方が遥かに洗練されて居るし、出来ればそうありたいのであるが、現在の日本ではこの手法を用いることが困難である。と云うのは、フイルムが余り良質でない為か、或いは他の原因に依るのでもあろうか、兎に角現実音の少ない静かな場面に音楽を使わないと細い雨の降る様な雑音が聴えて来て劇進行の興をさますこと甚だしいのである。
 従って、音楽家は大いに気が進まない場合でも、何かそれらしき弱い音楽を背景に使わなくてはならぬ結果となるのである。この様な機械的な雑音と云うものは、吾々の聴覚を或る一定のもの、――この場合は弱い背景音楽――に向けた時には意識されなくなるものであって、其の現象を利用する訳なのである。だが、此の様な努力は簡単に音楽家の感性が旧いと云って片づけられるのが落ちなのである。この様に現在の日本では機械的な欠陥を補うために自分の審美感を歪めなくてはならぬ場合が其の他にもあるのである。
 

 話は少し側にそれたが、この様にして、兎に角何処に何の様な音楽を書くべきかと云う大体の案が出来上るのである。だが、これだけで音楽を書き初める訳には行かない。と云うのは、演出家の言葉から受けた感じが装置、照明、カメラを通過すると、其等の影響に依って随分異なったものとなることがあるからである。そして、吾々はこの出来上った最後のフイルムの印象に依って音楽を決定すべき筈のものであるから其れを見てからでなくては案を決定することは出来ない。勿論、場合に依っては画面だけではどうしても其の雰囲気を出すことの出来ぬ様な時、音楽が其の画面の伝えたいと望んで居る処をくみとって此れを強調することもあり、又画面とは全然異なった音楽によって逆に其の効果を狙う場合もあり得るのであるがこれとても、兎に角画面を見なくては物にならない訳である。
 この様な必要から、一場面のフイルムが完成する毎にその部分の試写が行われる。この試写を普通ラッシュと呼んで居るが、これを見てはじめて仕事にとりかかり得るのである。然し、このラッシュは暫定的なものであって最後の編集の時には短く切られたり、中間に全然別のものが挿入されたりするのが普通であって、音楽の所要時間と最後の形とは映画全体の構成が完了するまで不明なのである。
 そうして現在の日本ではこの最後の構成の完了から録音までに四・五日位しかないのが普通であって作曲家は此の間に必要な音楽全部を書き上げなくてはならない。一本の映画には、長短とりまぜではあるが少なくも二十曲以上の管絃楽曲を要するものである。これは非希に無理な仕事であって、この作曲時間の不足と云うことは何とか改善すべきものだと思う。
 音楽を必要とする場面は、其れに要するフイルムの長さを呎(フィート)単位で計る。映写されるフイルムは二秒間に三呎移動するので此の比率に依って時間を算出するのである。因みに、フイルムの駒は一秒間に二十四ヶ移動するのであるがこれは誰でも知って居る様に断続的に動くものであるから、音はこの様な方法では録音も再生も不可能なのでこの断続的に動く個処から二十駒のループに依って断続の平均速度で運動する個処を得、其の場所で録音再生が行われるのである。従って、画面の側について居る音は正密には其の画面の音ではないのである。以上の計算に依って得られた秒数の中で、何の様な音楽を何の様にして始め何の様にして消え去るべきかと云うことは、全然作曲家の責任である。
 誰でも知って居る様に、映画にあって音楽は或る事件と同時に始まることもあり、又先行遅行することもあるのであるが、最近のアメリカのものでは、一カット位前から始まるものが一番に多い様である。これは、聴覚が音楽から或る雰囲気をくみとるのには視覚が画面から何かを読みとるのよりも一般に長い時間を要するものであり、又画面と音の変化とが同時に起ると、変化の度合が強すぎて作品全体の構成が揺ぐと考えられるからである。
 けれども、画面が或る雰囲気を醸してから後、音楽が静かに入りこれを強調すると云う方法も亦別種の効果を持つものである。
 此等手法の選択は、場合に応じ全体の均衡を考えて行われるべきものである。唯、古い演劇にあった様に人が死んで倒れると同時に銅鑼がゴーンと鳴って悲しげな笛がピローと始まるあの同時性は此の頃余り用いられなくなった。これは、心理的には最も妥当なものであるが、余りに妥当であり過ぎる為か又乱用に過ぎた為でもあろうか兎に角、現代の人達の感覚にとっては寧ろ滑稽な効果とさえなるものである。

 

 

 次は演奏であるが、これは録音を離れては考えることの出来ぬ程、密接な関係に置かれて居るものなのである。
 トーキーの音は、マイクロフォンを通った音が一度光に換えられ、その光が又逆の行程を経て音に転換され、初めて吾々の耳に達するのであるが、其の行程中、マイクロフォンが既に吾々の耳とは違った性能で出来て居るし、光に変えられたものが、焼付けだの現像だのと云う過程を経、再び又逆の行程を経る訳で、云わば物理学的なものと化学的なものとの二つの歪を受ける訳であって、演奏された音楽は再生に際して可成り異なった様相を示すものなのである。従って、演奏される音楽は生のまま単に耳に依って其の効果を判断することは出来ない。又、其の歪の度合は音色に依って異なるし、会話とか現実音の有無に依っても、影響を受けるので甚だ厄介なものなのである。現在の処最も再生歪の少ない楽器は三味線とサクソフォンであるが、此れ二つでは映画音楽はどうにも仕様がない。従って、この変性の起ることを意識して作曲し、又演奏しなくてはならない。
 これには、可成り組織的な知識が入要なので、一時独逸にあっては、パウル・ヒンデミット達に依って此の歪に適応すべき器楽法、演奏法の研究が行われたのであったが、ヨーロッパに於ける最近の録音技術の急激な進歩は、総る演奏を生のまま、或はそれ以上の効果を以って録音することに成功した為、この適応の研究は其の意義を失い、自然に消滅したのである。だが日本の現在のトーキー技術は未だそこまでは来て居ないので、作曲家はこの歪を意識しながら仕事をしなくてはならぬと云うハンディキャップを持って居るのである。現在、日本では四十人以上の管絃楽を使用するのが普通であるがアメリカでは二十四人以上の編成を使用することは稀であると云われて居る。
 此を以っても其の録音技術の差を知ることが出来ると思う。

 

 

 次は、録音の様式に就いて述べると(これはスタヂオに依って異なるところではあるけれども、)演奏者達は布やテックスの貼り廻らされた残響と反響を調整された室で演奏する。それに続いて、モニター・ルームと云う厚い二重のガラスで区切られた室があって、この室では、生の音楽ではなく劇場で再生されるのと同じ様な強弱と音質とを持った効果が、拡声器に依って聞き得る様になって居る。此の中には、作曲者(指揮者)演出家、録音技師等が入る。又、此の室からは録音すべき画面の映写が見える様になって居る。
 準備が調うと1・2・3・の文写の入ったフイルムが一秒隔きに写って映画が映り始める。指揮者は此れを合図とし、画面を見ながらガラス張の中から演奏を指揮する。
 此の時、演出家と録音技師と作曲家が種々の角度から会話とか現実音とか音楽の盛り上りなぞに関し合議検討しこれを調整しながらフイルムに録音して行くのである。
 この様にして録音を完了したフイルムが、一定の行程を経て映写用のフイルムが作られるのである。一般には上述した様な順序で映画音楽が出来上るのであるが、時には非常に音楽の効果が重要である様な場合は、はじめに音楽を録音し此れに演技を合せたり、又其の時間に合せてフイルムを編集したりすることもある。この様な場合の音の扱いをプレ・スコアリングと呼び、又此の様にして行われる演技をプレイ・バックと云って居る。其の他、種々の方法があるけれども此等は音楽と云うよりは録音技術の問題であろう。

 

 

 最後に、よくトーキー音楽の在り方に付いて語られる場合、耳にする言葉があるのを念のため附記して置きたいと思う。
 それは、映画とは総合芸術なのだから映画の効果音楽は決して耳につく様なものであってはならない。それは綜合を被るものであると云う見解である。これはサバニエフ等に源を発するものであって一応正当な意見である。だが、綜合と云っても同時的綜合と、時間経過を計算に入れた綜合とがある筈であって、或る場面はカメラの魅力、又或る場合は演技の力、そして或る時は効果音楽が主位を占めることがあっても、これは綜合を破って居るとの口実とはならない。唯、その各々がマイナスの効果を生んだ時、はじめて其れ等は非難さるべき筈のものである。
 映画は時間経過の上に成立して居るものであって、此の後者の立場が寧ろ妥当とさえ思われるのである。
 事実、最近になって、前述のサバニエフ等の意見はハチャトゥリァン等の見事な実践に依って完全に覆されて了った事を附記しておきたい。 

 

 

コンサート第一輯,p.21-231948.12.名古屋市音樂協會