・ここでは、伊福部先生が、月刊楽譜1936年2月号の「遙か遠く札幌市から忽然として共々に登場した二人の若き作曲家の言葉」に早坂文雄氏と同時に寄せた文書を全文掲載致します。(猶、早坂文雄氏は放送局募集祭典曲受賞者として「随想」を寄稿)

・本文はチェレプニン賞授賞直後の文書で、伊福部先生がお書きになった文書で論文を除き公刊されているものとしては、最も古いものであると推定されます。

・若き日の伊福部先生のお考えが披瀝されております。御高覧下さい。

 

・猶、なるべく原文に忠実に旧字等を復元しました。また、原文は縦書きでしたので横書きに改めるに際して、読み易くする為、一部体裁を変更致しました。

・ブラウザや使用機種により、文字が正しく表示されない場合はこちらの新字版を御覧下さい(かな使いはそのままです)。

日本狂詩曲と其の作家への蛇足
伊福部昭

 

 マルセル・プルウストが云ふ樣に((日本狂詩曲))と云ふ標題から受ける最初の印象は、最早何か或る槪念を造り上げ其の槪念は曾つて實在した誰かの作品に酷似した曲の姿を、人々の頭に浮び上がらせて、私の此の作品は未だ音響化もされない内に明確な題名の故に、幾分既に槪念化されて了つて居ると思はれる。想像を廻らし豫想する事は人間の特權であるとは云へ私は今から槪念化されて了ふ事を好まない。

 

 既成槪念が時として((屢々見受けられる事だけれども))作品の内容を、本質を、全々理解出來得なくする程迄に根く働く事の有る事を目擊して居る私は、今此處に私の作品、私の創作意圖、及び私自身に就いて明確な明は勿論、何か漠としたアウトラインを着け加へる事さへも本當は爲したくない。其れは彌が上にも私の作品を唯だ槪念化((私の最も恐れて居る))して了ふに力有る以外には全く意味が無いし、作家自身が自分自身を、自分の理論を、又自分の作品が如何なるジャンルに入るべきかと云ふ事を、得々として文學的()に裝飾して見ても((恐ろしく流行やり又甚だ容易な事だけれども))之れも亦大いに意味ないからである。
 

 唯だ私の望む事は、全く虛心な態度で何時の日か私の其の音響に接した時、若し心から感じて頂けるならば、唯だ理屈なく感じて頂けるならば私は全く滿足である。何か二三の形容詞で簡單に形容し切らなければ、又今までの作家の誰かに無理にでも類似點を見出さない内は((類似點が有ると無理にでも見做して了はない内は))何ふ云ふ譯か其の作家を、作品を理解し得たとは何ふしても考へたがらない特種の藝術家に何もいて私の作品は理解される事を望みはしない。
 

 云ふまでも無く或る一貫したイデが私の此の作品を完成せしめた事は事實であるけれども、其れに就いて今此處で述べ立てるには忍びない、作品が例へ相當なものである場合でさへ、早くも其の作者が滿足の意を表した時程みぢめな事は又と無いからである。そして滿足し自分自身でも大いに氣に入つて居る作家((演奏家も、又其云ふ役割を演ずる總べての分野の人達も此れに含まれる事は云ふまでもない))は常に又幾百人の氣に入るものだけれども、特に選ばれた少數の人にしか氣に入られない作家((・・・・・・))は又自分自身でも氣に入らないものである。
 

 或るイデが一つの作品を造り上げた時、人々は其のイデは完璧なるものであり、其れは又其の作家耳みが到達し發見し得たものであると考へたがるし、時には又作家自身が勇敢にも其のイデは自分だけが到達し發見し得たものであるかの樣に考へ、或は言ひ觸らすけれども、發見したと言ふ事は疑も無く彼が其れ以上探し求め樣としなかつたからだし、探求の停止及び停止の形式は發見の感じを與へるものなのだ。
 

 又『或る一人の藝術家の理論は常に其の本人を唆かして彼が愛しないものを愛し、愛するものを愛さなくする』と言ふヴァレリイの名言の實例を現代の藝術界に餘りにも多く見せつけられて居る私は、不幸にも私の理論とか意見とかに就いて今此處に偉らさうに述べ立てる勇氣の持ち合せが無い。以上の樣な種々な理由で私は私の作品の性質には觸れずに、單に其の生立ちの現狀を述べるに止どめる事を諒解し頂かねばならない。 

     ×

  此の度の應募曲は((日本狂詩曲))と名は附されては居るけれども、今シーズン((三五-三六))ファビアン・セヴィツキイの指揮の下にボストン・ピイプルス交響樂團に依つてジョルダンホールで世界初演される私の同名の交響曲の全部を包含する譯ではない。其れはコンクウルの時間の制限上、重要な第一樂章を取り除く事を餘儀なくされて作品は他の立派な全身像達の中に手を捥ぎ取られたトルソオのみぢめな形で出品されたのである。
 

 此の作品は初め三浦淳史君((新音樂聯盟の重要な役割を演じて下れて居る))の薦めでファビアン・セヴィツキイ((明するまでもないと思ふ))の爲めに稿を下したのであつた。セヴィツキイからの彼の書信には次の句が讀まれる。『唯だヤマダと言ふ作家の作品を聞いた以外には、日本が音樂上何の樣な事を爲て居るか私は全く無智である、作品の演奏を約束する事は出來ない。其れは唯だ内容の如何による、とは言へ勿論グリュンベルグ、ブロッホ、ショウスタコヴィッチ等のモダニズムも私の演奏を防たげはしない』
 

 私は此の作品に沒頭したのである。
 

 フィラデルフィア・チャムバー・シムフォニエッタの爲めに書き初めに此の曲は軈てセヴィツキイがボストン・ピイプルス交響樂團の指揮者に成つた事を知つて((私も其の頃此の作品がフル・オーケストラを必要とする事を痛切に感じて居たので早速))十六個の打樂器郡と二臺のハープ、一臺のピアノを持つ三管編成のフル・オーケストラの爲に構想を變へたので有つた。去年(一九三五)の七月の終りに近く完成して次のタイトルを持つ私のスコアを彼に捧げたのである。『日本狂詩曲・第一樂章日本舞踊調(ヂョンカラ)・第二樂章ノクチュルンヌ・第三樂章祭り』
 

 其の頃又三浦君が早坂文雄君((此の度の放送協會のコンクウルに入賞した私と同齢の新音樂聯盟が持つ優ぐれた作曲家))の熱心な薦めに從つて第一章を除いてチェレプニンのコンクウルの方にも出品して置いた。 

     ×

 十月も終りに近い頃、セヴィツキイから日本狂詩曲をボストン・ピイプルス交響樂團に依つて自分の出來得る限りのタクトを以つて今シーズン中に((三六年四月二十六日迄))に全曲の世界初演を爲したい旨の書信があつた。そして私のスコアは圖らずも彼のジョン・アルデン・カーペンター((魔天樓や氣狂い猫等のモダアンなジャズバレーを書いて居るアメリカの手の着けられない作家))の絶大な讚辭を受けたのであつた。

     ×

 以來私は聯盟員の心からの援助を受けて全パートのコピイに專心したのであるが、自由な時間を殆んど持つ事の出來ない私は每日數時間の睡眠を取る事さへも困難であつた。そして此の捗取らない此の仕事が漸くあと二三日で完成し樣として居た十二月の十七日、北太平洋に面した汽車も無い小さな港町で私はチェレプニンの入賞の報に接したのであつた。(一九三五・一・一六)

 

 

月刊楽譜二月号. Vol.25, No.2. p100-102. 1936. 月刊楽譜発行所 東京