小杉 太一郎 (こすぎ たいちろう) 略歴

   ▲在りし日の小杉太一郎氏
   ▲在りし日の小杉太一郎氏

1927年(昭266 映画俳優であった小杉勇の長男として

             宮城県牡鹿郡石巻町( 同県石巻市)に生まれる。

             生後間もなく京都市右京区へ移る。

 

1933年(昭8 京都府師範学校付属小学校に入学。

 

1934年(昭9 東京都世田谷区へ移る。世田谷区立松沢小学校へ転校。

         この頃からピアノを習い始める。

 

1941年(昭16)旧制東京府立第十五中学校(現 都立青山高等学校)に入学。

         この頃から作曲に興味を持ち始める。

 

1944年(昭19)麻布獣医畜産学校(現 麻布大学獣医学部)に入学。

 

1946年(昭21)この頃から独学で作曲法を学び始める。

 

1949年(昭24)東京音楽学校(現 東京藝術大学音楽学部)作曲科入学。

         池内友次郎氏に対位法及び和声学を師事。

         伊福部昭氏に作曲法及び管弦楽法を師事。

1952年(昭27 21回毎日音楽コンクール( 日本音楽コンクール)

         作曲部門第二部(室内楽部門)において

         「六つの管楽器の為の協奏曲」が第1位入賞。

 

1953年(昭28 卒業を目前にしながら東京音楽学校を中退。

東映映画「健児の塔」で初めて映画音楽を担当。

1955年(昭30 内田吐夢監督作品「血槍富士」の音楽担当を契機に本格的にプロとしての作曲活動を開始。

 

1976年(昭5189 膵臓ガンのため死去。 享年49歳。

 

 

作品:カンタータ「大いなる故郷石巻」、バレエ組曲「戦国時代」、同「鷲と少女」、舞踏音楽「杜子春」、同「綾の太鼓」、同「熊の見しもの」、同「トルソー」、同「ラ・トレスカ・バルバラ」、管弦楽「交響楽」、室内楽「六つの管楽器の為の協奏曲」、同「弦楽三重奏の為の二つのレジェンド」、吹奏楽「吹奏楽の為のルンバ」、同「吹奏楽の為の行進曲」、箏曲「双輪」等。

他に「宮本武蔵シリーズ(第2作目以降)(内田吐夢監督作品)、「彫る・棟方志功の世界」(柳川武夫監督作品)等、映画及びテレビの附随音楽多数。

 

ストラヴィンスキーを敬愛し、世界の民族音楽と楽器(特にアフリカ、中南米、インドの打楽器)に関する資料の蒐集や研究を行う一方、日本民謡の研究にも情熱を注いだが、これらをまとめた著作と翻訳は何れも未完に終わった。

趣味はクレー射撃、狩猟、ボウリング。 他にカメラ、油絵、茶道など。

 

写真提供/略歴作成:小杉家

御言葉~小杉太一郎氏御長男 小杉隆一郎氏より

伊福部先生公式HP開設のお祝い

 

 伊福部先生の公式ホームページ開設、誠におめでとうございます。

 と書いてはみたものの、どうしても僭越で場違いな感が拭いきれません。しかし、もし父が存命ならば、ここにお祝いの言葉を寄せることをためらう筈がないと自分自身を納得させ、先生より30年も早く逝ってしまった父になり代わり、お祝いを申し上げる次第です。

 

 また、今回、このサイトに携わっておられる出口寛泰さんから届いた、小杉太一郎について話を聞きたい、楽譜や写真が見たいという主旨の突然のお手紙がきっかけとなり、亡失したものと諦めていた父の受賞作品を含む5作品の楽譜が発見できたことにつきましても、感謝申し上げます。

 

 今回発見された作品の演奏・録音を実現したいというお申し出を出口さんからいただき、私ども遺族はこの企画を承諾し、微力ながらこれら一連の制作活動を応援して参りたいと考えております。作曲屋としての仕事ばかりで、作曲家としての作品はあまり多くは残せずに亡くなった父に興味をお持ちになり、50年も前にたった一度だけ演奏された作品の再演・録音について熱く語っておられる出口さんを拝見しておりますと、やはり噂に違わぬ「不思議な人物」だなあという思いを更に深めている次第です。

 

 最後になりましたが、こちらのサイトが益々注目を集め、更なる発展を遂げられますよう願っております。

 

小杉隆一郎(小杉太一郎・長男)

小杉太一郎氏死去に際しての伊福部昭先生の弔辞

・ここでは、昭和5189日の小杉太一郎氏逝去を受け「日本作曲家協議会会報」昭和5110月号№.48に掲載された伊福部昭先生の弔辞を全文掲載致します。

 

・本弔辞は、伊福部昭先生の小杉太一郎氏に対する思いが非常によく伝わるものであり、また、別頁掲載の小杉太一郎作曲 箏曲「双輪」五線譜版、そして今後の小杉太一郎発見楽譜作品の蘇演活動を進行していくに当たって、より作曲家 小杉太一郎を知る上で重要と考え、特に伊福部家、小杉家御遺族様の御承諾を得て掲載することとなりました。御高覧下さい。

(基本的に原文を忠実に再現し、文中明らかに事実と異なると判断した箇所については註を付記致しました。)

▲作曲家 山内正氏の結婚式にて
 伊福部先生と小杉太一郎氏
 (写真提供:小杉家)

弔 辞

  

 

 今、小杉太一郎君との永久の別れに当って、惜別の情一時にこみ上げ、言う言葉を知りません。君が音楽の世界に残された業績の数々と、また今、この君を失う損失の大きさにただ茫然とするのみです。

 

 君は、東京芸術大学に作曲を学ばれ、昭和二十七年、『管楽六重奏曲』に依って毎日音楽コンクールの第一位を得られ華々しく作曲界に登場されました。また、これに続いて、ブラジルのために『交響曲』を書き上げられましたが、その構成などについて語り合ったのも、つい昨日のようです。

 

 その後、数多くの作品を世に送られましたが、特に昭和四十八年の『ソプラノとバリトンと大合唱と管絃楽のためのカンタータ・大いなる故郷・石巻』は、その規模の大きさといい、また音楽の訴えの深さといい、君の最近の代表作たるを失わないものでした。年々、完成度の増す君を、友人達は大きな期待をもって眺めていました。

 

 君は、このような純音楽作品ばかりでなく、映画音楽の世界でも大きな足跡を残されました。

今思えば、君の最初の作品は昭和二十八年の東映作品『玄海の鰐』でした。この作品は御尊父の演出で、たまたま私がオーケストラを指揮致しましたが、御尊父が慈愛に満ちた眼差しで一曲づつうなずいておられた姿を今も忘れることが出来ません。

 

 爾来、君はこの分野でも才覚を現し、特に『血槍富士』と言う作品では、時代物に初めてジャズ・イディオムを用いられ、当時の映画音楽界に大きな衝撃を与え、また一時代を画したものでした。その後『たそがれ酒場』(1)『奈良』(2)等の名作をはじめ多くの作品を手掛けられましたが、その数は三百本を越えられるでしょう。

 

 また、君は御尊父の影響もあってか、日本の民謡に造詣深く、勝れた数多くの編曲を残されると同時に、日本の音律論などの研究も発表されました。

 

 更には、この民謡との関連で、中南米の民族音楽にも深い関心を示され、その研究論文は私共も教わるところの多いものでした。

 

 このように、音楽の世界にあって、幅広い活躍を示された君は、また、実生活の上でも、極めて寛大、寛容であり、明朗円満な性格は数多くの友人をもたれ、また、すべての友人が君を敬愛していました。

 

 その君が、このように突然、私共を離れて幽冥世界を異にするとは思ってもみなかったことです。いかに天の定めとは申せ惜別の情に堪えません。

 

 然し、今、その時が来てしまいました。胸つぶれる思いですが、今は只、心から君の御冥福を祈って、お別れの言葉とします。

 

  さようなら

 

昭和五十一年八月十一日

伊福部 昭

1;実際の音楽担当者は芥川也寸志氏で、小杉太一郎氏の父親である小杉勇氏が出演していることからの

   記憶違いと考えられる。

2;音楽担当者が異なる可能性が有り、現在調査中である。

 

▲小杉太一郎氏の婚礼にて
左より、小杉太一郎氏、伊福部先生、伊福部アイ夫人