作曲 雑感~第二回~

ⅰ. はじめに

 作曲の方法について、時々問われることがあります。いつもこの問いかけについては何を伝えていいのやら思い悩むものです。

 

 友人の作曲家、今井聡の言葉を借りると、「作曲をするとは、人知れずにも音符を書くことが好きで、自身の音楽に出会いたいという祈りにも似た痛烈な想いが活力となって、自身の音楽イメージを具体化させるために紙の上で行われる喚起儀式である」ということになります。

 

 これから書き記すことは学生時代から学習した内容を基軸に、様々な作家の言葉を集積したもので、およそ筆者のオリジナリティーなど存在しない、受売りの言葉の羅列でしかありませんが、記憶の痕跡を辿って、筆者なりの理解の結晶を言葉としたものです。諸先輩たちの記録に重複する部分が在るかも知れませんが、あえてそれを避けませんでした。最後に出来る限り参考文献を記載しました。

 

 現在では作曲家の表現方法も多種多様で、コンサート・ライブであったり、CDという媒体にこだわったりする作曲家も増えましたが、ここでは「書記される音楽」に固執して行きます。中でも歌詞を伴わない音楽、音楽を主人とした器楽に限定しての解説となります。

 

 予め断りますが「新しい音楽的な実存」であるとか、「明日の前衛音楽」、「偶然性や不確定な音楽の可能性」など、新しい音楽の実存や芸術としてのコンセプトを云々するような内容について期待されている読者には無意味な文章になります。音楽に於いての「新しい」という言葉の概念を信仰していない故でした。新しさを追い求めることと音楽作品を制作することは一致しない事を知っています。そこが音楽(聴覚芸術)と美術(視覚芸術)の違いだと確信するのでした。それでは、韓非子の言葉を枕に、作曲についてお話してみましょう。

 

 「犬馬は難し、鬼魅(鬼や化け物)は最も易し」これは宮廷画家が皇帝に何が描き難く、何が描き易いかを尋ねられて、普段見慣れている犬や馬は誰でも知っているだけに描くに難しく、逆に鬼や化け物は誰も見たことがないのでどのようにでも描ける。つまり音楽に譬えるならば、実体のある音楽は書くのには難しく、抽象的な観念や手法に捕らわれた音楽は、書くに易しいということに理解出来て、これは20世紀後半の主流であった所謂「現代音楽」という特殊な音楽領域への批判を込めて、その昔、伊福部昭ゼミで提示された言葉でした。

ⅱ. 音楽の意味するものと、タイトルについて

〈音楽とは〉

 

 音楽の意味については前置きしておきます。これは作品のタイトルの命名の方法や音楽そのものの考え方に関連しますので簡単に触れておきます。
 

 音楽の表現出来る内容はまず、「音楽」でしかないことです。音楽について「音楽の内容は音響的に運動する形式で、感情や思想描写の手段ではない。」(Eduard Hanslich)や「音の運動が時間的に持続する形式。」(伊福部昭)という言葉に象徴されているような存在だということでした。古くは思想家のショーペンハウアーや仏蘭西の文学者のアラン、ストラヴィンスキーの音楽の考え方でもあるのですが。テレビ時代の聴衆はよく音楽以外のイメージを、音楽に期待することがあります。また、驚く事に音楽が流れて来たら何か音楽以外のイメージを想起させなければならないと考えている聴衆も居るようですが、これは凡そ間違った音楽の鑑賞方法であると宣告しなければなりません。音楽はそれ以外を表現の内容として持ち合わせていません。

 

 

〈タイトル〉

 

 音楽の即物的な実存を考え方にしていた典型としてショパンが居ます。非常にロマンティックな音楽の印象がありますが、ショパンはタイトルに音楽用語以外を用いる事は少なかったはずです。前奏曲、即興曲、バラード、ポロネーズなど、音楽用語の範疇を逸脱する事は在りませんでした。彼をロマン的にしたのは彼の流浪の人生で、ドラマチックで悲劇的文学的な側面でした。精緻なメロディーと繊細なハーモニーに裏づけされたピアニズム(ピアノ曲としての完成度)は文学的な連想には事欠かない存在だったかも知れませんが。彼の仕事振りは、タイトルなどからも、極めて「即物的」、「古典的」な姿勢であったと確信させてくれます。しかも楽譜の綿密さは後の印象派を予感させます。アンドレ・ジッドは著作「ショパン」の中で「最も純粋な音楽」とショパンのことを賛美しておりますが、その理由も即物的な姿勢に対しての評価を含むものでした。 

 

 連想の自由はもちろん聴衆に許されております。逆に劇音楽は聴衆の連想作用を用いるのですが、これは劇音楽の効用としての役割ですので、普通に器楽曲から何かを連想する事とは意味が違うのでした。中国の故事には「酒を呑んで楽しくなったり、悲しくなったりするのは何故か? 酒にはそんなものは入って無く、人間が勝手にそんな心境になっているだけだ」(声無哀楽論 3世紀頃)というものがあります。音楽にも同様に斯様な薬剤は入っておりません。

 

 過剰な連想はかえって誤解を招くものでした。音楽史で言いますとロマン主義や表現主義と言われる時代には、そのような音楽以外のイメージを音楽に託そうとした著名な作曲家が大勢おりましたし、今日でもその傾向の作曲家を見つけるのに苦労しません。ある連想を期待するかのような突拍子も無いタイトルが付与されていて驚く事もあります。

 

 タイトル文や解説文などの予備知識なしに伝統と民族を超えて「音楽そのもの以外の意味」を、音楽を用いて額面通り伝達する可能性は無いと考えます。何かの意味を「比喩」や「隠喩」として隠す場合も同様です。ベラ・バルトークは均整美の意味として「黄金比」を楽曲に組み込みましたが、聴覚的にはその「黄金比」の効果は伝達出来ていないと筆者は評価しております。分析好きがスコアでその比率と音楽との関係を驚愕して喜ぶだけでしょう。勿論タイトルから或るイメージを誘導しようと企てる作家の意図は古くから良くあるものです。逆にそのタイトル・イメージと音楽自身のイメージの混乱や錯覚、カルカチュアを楽しむこととしてそれを芸術の目的にしたエリック・サティという不思議な大作曲家もおりましたし、とことん文学的な意味を「交響詩」という様式に込めて、ニーチェの哲学までをも音楽にしようとしたリヒャルト・シュトラウスという大作曲家もおりました。シュトラウスの場合タイトルや解説の予備知識が無いと、とても理解しにくい音楽になってしまいますが、その文学的な意味を知ってようやく音楽の内容が動き出すのです。文学的な手続きが必要な音楽は、損だと考えることが許されます。コンサートに行く前にしっかり予習しておかなければなりません。

 

 何度も言いますが、連想の自由はあっても構わないですが、作り手にはもっと音楽自体の機能、つまり表現出来ることは単に音楽的な内容でしか無いとした認識、即物的な存在としての音楽理解を、そのタイトル付与の「出発点」にすることを推奨するようにしております。料理人にとってトマトはトマトでしかないはずですから。悲劇的トマトも喜劇的トマトもありません。徒に意味の在るはずの無いものに、何かの意味を強いるのは、度を越すと悪趣味にもなりかねないのでした。ジャン・コクトーは「音楽は何も再現しない・・・ところが美しい音楽は何かに似ている」と彼らしくお茶を濁しました。

 

 伝統的に邦楽の世界には、そのような音楽外の意味を冠にしようとする「ロマン主義」が綿々と続いていることも指摘いたします。筆者の深く敬愛して止まない箏曲の作曲家、宮城道雄のタイトルに代表されるように名曲の《春の海》《ロンドンの夜の雨》《松》のような命名はショパンとは正反対の音楽の考え方になります。

 

 もうひとつ、タイトル命名のエピソードを一つ記します。作者はいつ作品に命名するのかが問題になって、芥川也寸志と伊福部昭との師弟のやりとりですが、芥川は自分の赤子の顔を見ないと命名が出来ないのだから、脱稿してからの命名すると語り、伊福部は、音楽は建築と同じで、これから病院を作るのか住宅を作るのかでそもそも作り方が違うのだから、或程度作曲以前に決める事が出来る、としたエピソードです。さて、あなたはいつ命名するのでしょう。

以下続

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