作曲 雑感/第四回

ⅶ. 音楽の構成について

〈イメージの方向と音楽の接着〉

 

 多くの聴衆は、音楽は冒頭から順に作られていると考えているようですが、実はそうでは在りません。音楽の形の設計の方法について書いてみます。

 

 初心者ですと全体性について弱点が出て来ます。それは大抵が山場の設計と、素材の結合と、素材の提示の順序に関わる事が多いと思います。モーリス・ラヴェルは優れた音楽形式について「興味を持続する形式」という言葉を残しております。

 

 音楽を注意深く聴いていますと、ある幾つかの部分から構成されている事が分かります。その構成の仕組みと生成の流れについて最初に考察してみます。

 

 米国の幻想文学者のエドガー・ポオの古典的名著で、詩法を語った『詩作の哲理』(東京創元社/春秋社)などを読んでおく事をお勧めします。「探偵小説の父」と称され、死の翌日ニューヨーク・トリビューンには「彼の死を悲しむものはいない」と書かれ、悪魔の生んだ異様な私生児と揶揄されたポオは昭和の幻想文学者の江戸川乱歩が当て字で筆名とした存在です。少なくとも印象派の音楽の影響を受けたことのある人物なら、その根源的な存在であることに注意を払わなければなりません。晩年のドビュッシーはポオの『アッシャー家の崩壊』のオペラのプランを温めながら未完となりました。後のフランスやイギリスの文学者のボードレールやマラルメ、ユイスマンス、ヴァレリー、エリオットやワイルド、劇作のメーテルリンクや空想文学のヴェルヌ、画家のルドンやドーレにまで影響を残しました。モーリス・ラヴェルも若い時期に読み、弟子達にも読ませたとされる書物です。これには自作の詩文The Raven「大鴉」の制作過程を中心にした時間的な構築順とその効果について述べられています。ここに譬え易い推理小説を例にして説明しますが

 

 とある殺人事件があったとして、それを解明する物語の仕組みとして、まず山場(クライマックス)の部分「解明、犯人の発見」の制作をします。これが核になるのです。そして、それに辿り着くまでの「対比」に当たる部分。つまり山場を裏切るような仕掛けを対比として施して行くのです。つまり犯人は判明するまでは、「まさかこの潔白そうな人物が犯人だなんて」というような仕掛けです。単純に推理小説の制作方法を説明しました。当たり前と云えば、そうですが、この場合、時間芸術の計画の方法が焦点でした。音楽も同様です。ポオは自著の中で「全ての芸術がはじまるべき終局から詩は始まる」(Op.cit.)と述べております。

 

 脱線しますが、料理で言うならば、メインディッシュを決めてから前菜を計画する方法です。それがポオの時間芸術の設計の正格の方法となるのです。ここでなぜ、料理の話を持ち出すのかと言いますと、お料理は典型的な時間芸術のモデルになりますし、様々なお国柄もあって、伝統と文化の説明のための譬えとして好都合なのでした。ストラヴィンスキーが「音楽とは食べる事に近似である」と言った事や、ワイルドが「文化とは料理に依存する」と書いたことは頷けるはずです。肉体と精神の健康の増進を前提とします。例えば食傷してしまうような状況というのは、音楽では聴覚疲労に当たるでしょう。ですので「ここでアントルメのシャーベットが出て来たぞ…!!」とタイミングの意外さに驚いたり、食後のスープの収まりの良い流れの中華料理だったり。食べる事の構成も民族色が豊かなのです。

 

 時間を構成する事についての参考書としては、ソビエトの映画監督のエイゼンシュテインやブドフキンに代表される様々な「モンタージュ論」があります。戯曲ではドイツの古典的劇作家のグスタフ・フライタークの『戲曲の技巧 Die Technik des Dramas』(岩波文庫)などがあります。フライタークは大詰めについて「頂点に達した時我々は最早必要のない言葉は一言も費やすべきではなく、語るべき事がすでに尽きたならば、もうそれで終末にすべき」と書きました。日本にも定家の「歌論」、世阿弥の「花伝書」や芭蕉の「俳論」利休の「茶道論」があって、これが日本の時間芸術の美学の書です。映画やお芝居、文学ばかりではなく、お料理も時間芸術なのでコースになった料理の組み立て方などでメニューに見入って料理人の意図を図ることがあります。辻嘉一や魯山人の著作や、ブリア・サヴァランの「『美味礼讃』味覚の生理学」や中国の『随園食単』なども作曲家には面白い参考書になるはずです。

 

 先のフライタークの「戲曲の技巧」は演劇の古典で、「起承転結」の内容について語られており、山場を効果的にする為に必要な前触れについて書かれています。更に「3部5点説」という分析が書かれています。日本には世阿弥の「風姿花伝」で「序破急」という時間の構成概念を語り、「三道」ではそれをやはり五段階に配分する論を展開しているのは面白い所です。

 

 モンタージュとは画像の提示順序で「意味」を作り出そうという映画手法ですが、音楽の素材も提示する順序というものが音楽個々にはあると思っています。ストラヴィンスキーは《春の祭典》で、短い素材での対比の反復或いは連続提示する効果を使っていますし、古くはベルリオーズが《幻想交響曲》などで映画的モンタージュ的効果を試みております。これは文学に依拠するロマン派ならではなのかもしれません。その意味で音楽家は映画的なる表現を予見していたと言えるでしょう。短時間での対比は緊迫感を醸し出しますし、長時間での対比は音楽的興味の持続には必ず必要なものでした。

 

 モンタージュの手法には様々な映像素材の接着方法(Enchainment)が含まれております。カットイン/カットアウト、フェードイン/フェードアウト、アイリスイン/アイリスアウト、ワイプ、オーバーラップ、ダブルエクスポーズ等々音楽でも可能な効果が多く在ります。

 

 AとBの対照的な画像の素朴な接着法としては、【Aの画像bの画像の予告(短く)Aの画像Bの画像】というような、「予告」の効果で対照的な素材の接着をすると唐突な印象が薄れて自然な流れとなります。音楽でもそっくり流用可能な手法ですし、実際使われております。茶道の茶室への入室もこのような作法があります。違和感の無い空間や時間への人間の親和力に寄せる直感でしょうか。先の通り映像の接着法が音楽の接着法を説明するのに便利なことがあります。

 

 

〈表現の節約〉

 

 次に、山場の為に作られるその前座の部分に必要な要素とは、「表現の節約」です。音勢の節約、音色の節約など、表現のカードを少なめに切って、山場を凌ぐ事のないようにして、結末としての山場の効果を高めて行きます。後は単に「節約」だけに気をとられることなく聴き手にとっての「興味の持続」を計画することが必要です。「飽きさせない」ということは時間芸術にとって最重要課題でもあります。その結果何が必要かと言えば「対比」が必要となるのでした。甘いものの後に辛いもの、辛いものあとに苦いもの、苦いものの後に塩辛いもの、塩辛いもののあとに、酸っぱいものと続くことや、繊維質の後にタンパク質、色彩での補色の関係というように、対比になる食べ物を単純に並べればそのようになります。

 

 では、音楽での「対比」をどう設定するかといいますと、まずは素朴に音楽の3要素に照らした分析が必要になるでしょう。音楽の3要素とはつまり「旋律」「律動」「和声」ということになります。一つの楽案(作曲やその素材についてのアイデア)に3要素のどの部分の要素が強いのかが分かれば、その対称項の音楽素材が「対比」になるはずです。他には「強度」や「速度」「調性」「旋法」の対比、音型の対比、例えば「上昇する性格の旋律」対「下降する性格の旋律」、弦楽に対する金管のような「音色」の対比など、複合した内容での対比を知的に発見設計出来るはずなのでした。

 

 

〈統一感〉

 

 次に出て来る課題が「統一感」でした。先の「甘いものの後に辛いもの」というように単に絵巻物のように順列に並べて行くと素材ばかりが増えて統一感が落ちて来ます。ポオは「何等かの効果を生むためには、ある程度の持続が絶対に必要である」(Op.cit.)と述べています。では、その「統一感」に何が必要かと言いますと、今度は「素材の限定」と「反復と持続」なのでした。少ない素材で全体像を作り上げる事で「統一感」が出て来るものでした。赤なら同じ赤系統の暖色に限定して描けば、紅の統一したイメージの絵になるのはお分かりになると思います。逆に対比だらけの極彩色な色選びをしますと散漫で落ち着かないイメージとなります。(それを目的にしている芸術もありますが。)同じようにお芝居で主要な登場人物が多ければ、物語が錯綜して誰が主役なのかぼやけてしまうのと同じ事です。

 

 「反復と持続」については音楽素材のイメージを聴き手に刷り込ませて定着させるという効果があります。そのためには反復可能な楽案が必要ではあります。「良い楽案」というものは「反復や持続に耐えられる」という個人的考え方があります。驚異的な例ではラヴェル作曲のボレロがありました。あれは正に反復と持続の勝利であり、表現の節約の勝利の典型です。

 

 詩人のポール・ヴァレリーは「反復出来る能力とは生命力に他ならない」と語りましたし、アンドレ・ジッドは「快楽とは反復によって作り出される」と述べております。ここは作家の技が出て来るところでもあるのでした。料理で説明しますと「お代わりがしたくなるような小粋で旨くて程よい量の一皿」です。要望がありそうでしたら、もう一皿のお代わりも当然です。
 

 素材の限定に戻りますと、一番シンプルな、その典型は洋楽の「ソナタ形式」です。お芝居ですと二人芝居のようなものです。あるいは善玉対悪玉の2極対立の物語とも考える事ができるでしょう。ソナタ形式の基本は凡そ2つの対比を構成する素材で全体を形作るわけでした。例えば一つが律動的で、もう一つが旋律的な楽案があればソナタ形式の準備が出来たという事でした。多くが旋律的な楽案が後に来る事が多いと考えて良いでしょう。旋律の創案こそが個々の音楽の命であり核だとする考え方を私は正格としますが。一番取って置きのカードを後に出すのは時間芸術の基本的常套手段です。

 

 

〈導入について〉

 

 冒頭で一気に音楽への聴衆の興味を一気に引き込ませる為の工夫というものがあります。ハリウッドの通俗的な活劇映画などで冒頭に小さな事件を配置するのもこの意味となります。

 

 作曲家のリヒャルト・シュトラウスはストラヴィンスキーに「最初に大きな音を出してやると聴衆は必ずついて来るものだ」と語ったことがあるそうです。時間芸術の冒頭で聴衆の興味を一気に引き付ける事は大切な効果ですが、シュトラウスの言うような大きな音とは限りません。ムソルグスキー作曲のオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の前奏曲の立ち上がり方やファリャの《スペインの庭の夜》などは申分の無い程絶妙なものです。ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》の立ち上がり方はとても神秘的です。大きな音の出る立ち上がりですとチャイコフスキーの《ピアノコンチェルト第1番1楽章》などはその例です。見事です。一度だけ反復しますが、一番堂々として美味しい部分が最初だけにしか出てこない不思議な楽案です。その分あの冒頭の楽案の後は随分工夫をしなければならなかった様に聴こえます。結果、丁度良い複雑さで深みが出て、華やかになったことはチャイコフスキーの幸運な才能です。これも一応ソナタ形式なのですが、冒頭の楽案がその2つのいずれのテーマにも類似していない別個なエピソードになっているところがチャイコフスキーの不思議な形式感です。1楽章や3楽章のエンディングで使っていても不思議ではないのに。別の楽案を使ってしまいました。まあ30代の若くて楽案の豊富な時期だったからだと推察しています。交響曲の4番あたりでは、しっかり冒頭のテーマを上手に最後に生かしております(環状終止)。

 

 時間の円環的効果や反復効果は人間に安定的な印象を与えるものです。ソナタ形式でもそうですが、あるテーマに復帰した時の安堵感の理由は不明ですが、親愛な存在への再会は喜ばしいものです。懐かしさでしょうか。また、逆に余りに反復し過ぎるテーマには逆に焦燥感となります。「仏の顔も三度」までは作曲家にとって重要な格言でもあります。閑話休題。

 

 また別の導入法としては、全く、さり気なく始める方法もあるものでした。気が付いたらその音楽の真只中という始まり方もあるはずです。それぞれの作家の個性を見極める事の出来る楽しみの一つが、導入の冒頭部分であります。

 

 

〈まとめ〉

 

 老子は「五色は人を惑わす」という言葉を残しました。素材が多ければ散漫な印象が強くなります。お芝居でも絵画でも、音楽でもその言葉は生きていると確信しております。ただ、「興味の持続」の為に「対比」が必要となって、「統一感」の為には「対比」の素材を減らすわけで。しかもある程度の反復をしなければ音楽が定着しない。「興味の持続」と「統一感」の間で、このような「対比」の構築の綱引きが行われているのは時間芸術の面白いところなのであります。このことをストラヴィンスキーは「クロノモニー(時間と構成の意味の造語)」と言っておりました。これは作家にとっては一生の課題です。

 

以下続

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